遺書にはあなたの名前がある

彼女へ

僕はどうしてこうなってしまったのだろう。精神科の待合室でじっと考える。それはすべてあの女のせいで、あの女がいなければ、僕はもっとちゃんと居られたのかもしれない。あの女も、だ。

 

 

(まず、ごめんね。)


 すぅ,はぁはぁ。すぅ,はぁ
18:40。Twitterで出会った女とハチ公で待ち合わせをした。
すぅ,はぁはぁ。すぅ,はぁ
それらしき女がしゃがみこんで過呼吸を起こしている。Twitterで見た通りだ。明らかに精神疾患を抱えていますみたいなファッションで、ぐちゃぐちゃのウルフカットを震わせてしゃがみこんでいた。
僕は一瞬帰ろうか迷った。だけど今にも死にそうな初対面のこの女を放っておくわけにはいかない。
Twitterの子だよね。わかる?僕です。大丈夫?」
彼女は僕の顔をちらっとみて、薬、と言った。
「……かばんに薬が入ってる、赤いポーチ。」
失礼、と声を掛けて僕は彼女のカバンを漁る。これか、あった。
手渡すと錠剤を口に入れてつばで飲み込んだ。水を飲まずに薬を飲めるなんてすごいな、と不意に思った。
「ごめんなさい。もう大丈夫」全然大丈夫じゃない顔でそう言われて、「移動しようか。」僕は言った。
駅から少し歩いたところに古ぼけた純喫茶があった。前に彼女は煙草を吸うと聞いていたし、そこは静かだし、ぴったりだと思った。歩きながら彼女は下を向いて黙っていたから、僕は手を握った。そうしたら握り返してくれたんだ。
それが僕たちの不器用な出会いだった。

 喫茶店に着くと彼女はすこし落ち着いたようで、煙草に火をつけた。そして僕を見て、つり目を柔らかくしたあと、少し笑う。
「どうして帰らなかったの?こんなどうしようも無い女見てさ」
僕はうーんと少し大袈裟に腕を組んで返す。
「少なくとも気になっていたからね。君のこと。そういう病気があるのも知ってたし、君の文章にも写真にも惹かれてたから、会ってみたくて。」
「変なの、貴方には抱えきれないものよ」
軽蔑したように僕に言う。
あぁ、良い女だな。
「ねぇ、どこから来たの」
「僕?板橋だよ。猫と住んでる。きみは?」
「ねこ。いいな。私、家ないから」「家が無い?」「うん、そう。」
アイスラテのストローをくるくると回しながら彼女は答えた。
 それ以上僕は踏み込まなかったけれど、きっと僕が耳を塞ぎたくなるようなことを抱えてるんだろうなと同情した。そして、彼女のことを可愛いと思った。可愛くて仕方がない、か弱い女。僕が守ってあげたいと、その時思ってしまった。
「僕の家来る?」
不意に出た言葉だった。
彼女は驚いたあと、ニヤニヤと笑った。
「初対面だよ?きみ馬鹿だね。あたし、17歳だけど。エッチ出来ないよ」
最後のほうだけ小声になって僕に言った。ケタケタと笑う君を見て、それでもいいよと返した。彼女は心底驚いたような顔をしたあと、少し生ぬるい声で、
「じゃあ、いきたい。」
 と言った。


 それからの生活は早いものだった。
6畳のワンルーム。僕の猫もすっかり彼女に懐いて、彼女が飼い主みたいだった。
僕は大学を出てからフリーターで、昼間はアルバイトで家にいない。夜に帰ってくるとご飯を作って彼女が待っていることもあったし、真っ暗で誰もいない時もあった。僕が帰った2時間後に平然と「ただいま」と言って帰ってきた時も、何でもない日に高そうなケーキを買って帰ってきた時も、僕は何も言わなかった。帰ってきて居ない時は少し悲しくなるけど、次の日には絶対に帰ってくる。僕はそれをずっと信じて、彼女もその期待に応えてくれた。

 彼女は度々体調を崩した。彼女は、
「鬱と自律神経失調症なの、わかり易く言うとね。」
と言った。彼女が鬱で動けない時は、お風呂に入れて髪の毛を洗ってあげた。風呂さえ嫌がる時は身体を拭いてあげた。家事の全てを僕がして、人のごはんが食べたいという彼女に、たまにはと慣れない手で料理を作った。彼女の体調は2日で治る時もあれば、2週間続くこともあった。
ちいさなことで腹を立て僕に皿を投げた時もあった。僕に破片が当たって流血したのを見ると彼女はアパートの3階から飛び降りようとした事もあった。それを僕は必死で止めた。僕は、愛し愛されているんだと実感した。それはすごく歪んでいた。
でも、気づけば家の皿は全てプラスチックになっていた。


 僕のバイトが休みで、彼女が元気な時は渋谷や新宿に行くことも多かった。大体、映画館でレイトショーを見たあと、大衆居酒屋で酒を飲んで帰る。特におしゃれにも流行りにも興味のない彼女とのデートは楽だった。財布的にも。3回目の外でのデートの時、彼女はめずらしく泥酔して、帰りの駅のホームで僕にキスをした。それが初めてのキスだった。

 

 季節はどんどん巡って、季節は春になった。春は彼女の誕生日で、僕はバイト終わりに予約していた大きなケーキを買って帰ってきたけれど、当日の22時に彼女は居なくて少し悲しくなった僕は、テーブルにケーキを置いてベットで猫を撫でた。まだ暖房をつけているからうとうとしてきた。少し眠る。
23:50、ドアがガチャガチャと鳴った。
「ただいまー!」
 おかえり、とまだ寝起きな声を出すと、彼女は僕を揺すった。
「ねえねえあと10分!間に合った!おめでとうは?」
目が覚めてきた僕は彼女を抱き締めて、おめでとう、と言った。気づけば半年が過ぎていたんだ。「これ買ってきたの。遅くなっちゃった」
 白い箱を僕に渡してくる。開けるとペアのネックレスが入っていた。
「私の誕生日だけど、お揃いにしたくて。」
嬉しそうに彼女は言う。僕は大袈裟には喜べなかったけれど、本当に嬉しくって、ありがとう、と何度も言った。
「僕も、ケーキ買ってきたんだ。これだけになっちゃったけど、きっと美味しいよ」
暖房に晒されて少し溶けたケーキを頬張って、
「ぬるい、けどいちばん美味しい」
と彼女は笑ってくれた。
 その日、僕ははじめて彼女を抱いた。泣きそうなくらい幸せで、彼女も泣きそうなくらい幸せな顔をしていた。ずっとこうしていたいと思った。彼女は「首を絞めて」
と懇願したけれど、僕にはどうしても出来なかった。事が済んだあと、
「また今度ね」と言ってみせた。


(でもね、私、生きて欲しいよ)


 僕らがはじめて喧嘩をしたのは、梅雨の時期のことだった。
彼女は気圧にめっぽう弱くて、この時期はほぼ一日中布団の中にいた。お金の余裕もなくピリピリしていた彼女は僕によく当たった。僕が母親に与えられたものとほば同義の、ヒステリックだった。
あれがない、これはどこ、勝手にしないでよ、あんたなんか死んじゃえばいいのに。あなたがそうじゃなきゃ私は———。
そういうどうしようもないことばかりを言っていた。それでも僕は我慢して毎日働いた。彼女とこの部屋に居たかった。
仕事が終わって帰ると部屋は真っ暗で、彼女は手首を血だらけにしたまま睡眠薬で眠っていることも多かった。僕はその腕にバンドエイドを貼ってあげる。眠る、傷をつける、そこにバンドエイドを貼る。そのスピードが間に合わないほど、彼女の腕も、僕の体力も持たなくなっていた。
彼女が今日も生きていてくれて、それだけで嬉しかったのに、その余裕さえ無くなっていた。
 僕がイライラしているのも伝わっていたのだろう。二週間ぶりの休み、曇りの日だった。僕は布団にうずくまる彼女を横目にスマホゲームで時間を潰していた。彼女が起き上がる音がかすかに聞こえたが、気づいてないふりをした。
「ねえ」
名前を呼ばれて振り返る。
するとそこには、真っ白なワンピースを着ている彼女がいた。
「ねえねえ、海、いこ」
華奢で真っ白な素肌に生傷はよく映えていた。痛々しいほどに。僕は彼女のからだを見たあと、少し痩せたな、と思った。
「うん、行こうか」
少し溜めて返した僕の声に、彼女はホッとしたような顔をして、へたくそに笑ってみせた。
 適当なティーシャツとデニムを履いた僕の手を引いて、彼女と駅に向かった。少し蒸し暑い。東京から海までは遠い。また電車でパニックになるんじゃないかと思った。
僕は有線イヤホンの片方を彼女に渡して、最近部屋で彼女がよく聴いている音楽を流した。彼女はすこし驚いて、手を握って微笑んでくれた。最近の自分の態度を思い出して、僕は申し訳ないことをしていたな、と思った。
 平日だったからか電車はやけに空いていて、乗り換えてもずっと座っていることが出来た。大きな駅まで出た後、江ノ島へ向かうためまた電車を乗り換える。ソルファのアルバムをシャッフルで流してみると、彼女は
「きいたことある。好きな曲。」
と言った。
 江ノ島駅の手前まで来た時に、目の前に座った小さな子どもが、彼女の腕を指さして
「いたい、いたい」
と言った。おねぇちゃん、いたいいたい。
横にいる母親がすみませんすみません、と言ってそそくさと席を移動する。僕はなんだかムカついて、「ぶってきてあげようか」なんて言ってしまうと、彼女は「あの子はやさしいんだよ」と笑って、手を握る力を強くした。


 江ノ島に着くころには更に空はぼんやりとしていた。
彼女は目を離すと直ぐにどこかに飛んでってしまうから、手を繋いでいることが多くなった。
遅いよ、と急かされる。曇り空の江ノ島はどうしても綺麗とは言えなかった。
 綺麗な貝殻をひろって、家に帰ったら瓶に詰めようと約束した。シーグラスには目をくれず(最近の彼女は、コップを割る事故があってからガラスものが怖いみたいだった)貝殻を沢山集めた。そのあとは海に膝まで浸かって、僕が砂のない崖まで背負って連れて行ってあげて、ハンカチで足を拭ったあと、靴を履かせてあげた。ひざまずく僕を見て
「私お姫さまみたい」
 と彼女はケタケタと笑う。
「お姫さまだよ」と返すと、彼女はまた嬉しそうにケタケタと笑って、キスをしてきた。
 散々遊んで家に帰るともう時刻は深夜で、彼女はめずらしく睡眠薬を飲まずに深く眠った。
静かに眠る彼女を見て、僕も安心してとなりで眠った。


(すぐ死ぬって言っていたけれど)

 梅雨が明けると、彼女は腕を切ることをやめた。半袖の時期に切り替わってゆくのが理由かもしれないけれど、僕はそれが嬉しかった。
でもやっぱり、彼女は長袖ばかり着るようになっていたから、僕は七月の初めに綺麗な花柄のサマーニットをプレゼントしてみた。お揃いで胸元にワンポイントのクジラの刺繍があるサマーニットを僕も買った。
彼女はえらく気に入って、夏の間はそればかり着ていた。
 しかし、夏らしいことは何ひとつしていない気がする。夏祭りも海も人が多いからという理由で自然に避けていた。動物園に行こうかと誘った時は、「多汗症だから」
と断られた。それでもいちど、ふたりで美術館に行った。彼女は変な猫の絵にひどく見とれて、二十分もその絵画を見ていた。可愛いなぁと思った。
そういう所が本当に愛おしかった。僕には良さの分からない絵だったけれど、彼女が気に入ってるなら僕も好きだ。
 帰りにはその変な猫の絵のジッポをみつけて、記念に買ってあげた。
やっぱりこういう所の記念品は高いけれど、嬉しそうに笑う彼女を見ればそんなことどうでも良かった。ジッポの他にはポストカードを四枚ほど買って、ベット横の壁に貼った。この狭い部屋に、そういうものが段々と増えていって、僕はとても嬉しかったんだ。


 僕の貯金も段々と増えてきた。
特に必要は無かったし今の生活には満足していた。それは、特別な時のお金だった。
最悪で特別な時に使おうと思っていた。
たとえば、彼女が生きていくのが嫌になった時の逃避行代。たとえば、彼女が何処かに逃げてしまった時追いかけるお金、たとえば、彼女がもしも妊娠してしまったとき、堕ろすお金。すべてが彼女の為で、彼女のものになっていた。
 秋風が吹くころ、コタローも冬毛に切り替わってきて、僕らの服には毛がまとわりついた。それも気にせず、僕らは三人で眠る。
最近は彼女の無言の外出もヒステリックも鬱も少なくなった。よかった、落ち着いているみたいだ。
でも、彼女は時たま、快楽を求めてオーバードーズをした。
死にたくは無い、ただ気持ちよくなりたい。そう言っていた。違法薬物を使って会えなくなるよりはマシだと思った僕はそれを容認した。
たまに僕にも半ば無理矢理薬を飲ませてくる時もあった。一緒に気持ちよくなりたいそうだった。
デクセムを互いに飲みあった僕らはそれ以上の快楽を求めず、手を繋いで天井を見ていた。薬が切れるまでの間、ずっと。
それだけでぐるぐる視界は回って、彼女のことを愛している気持ちは強くなって、僕は仕切りに愛を伝えた。それは彼女も同じだったみたいで、彼女もそれに応えた。
「私も大好きだよ、世界でいちばん。一番だいすき。」
そう言い合ったあと、抱き合って眠る。
もう睡眠薬も、誰かと連絡を取ることも要らなかった。ふたりきりで良かった。
もう何も要らなかった。これが幸せだとつよく、つよく思っていた。そう勘違いしていた。


 (あなたにはおじいちゃんになるまで生きてて欲しい)


 その日は久しぶりに外でのデートだった。
デートと言っても、池袋を少し歩いて、日用品を買って、ラブホテルで泊まる(——僕が泊まったこと無いと言うと、一緒に行きたいと言われた)プランだった。
猫のペットシーツと、ボックスティッシュ。生理用品と、デクセムを買った。
今日もオーバードーズをするだろう。だけど良いんだ。朦朧とした彼女の瞳は、酷く幸せそうだった。
 僕が会計を済ませていると、彼女が居なくなった。こういう時は大体先に出ている。店内を横目で見た後、ドラッグストアを出る。
彼女は僕の携帯を見ながら体育座りをしていた。
嗚呼、なにか嫌なものを見ていないだろうか。
彼女は傷ついていないだろうか。
少し鼓動の早くなった胸で、彼女に近づく。
「ここのコンクリは汚いでしょう。」
彼女は黙っている。僕は彼女の肩を揺らして、なぁ、と言った。
「ねえ、これ。誰?」
彼女が携帯を僕に向ける。そこには『友達ではないユーザーです』の文字と、懐かしい名前があった。『ひさしぶり。こっちに引っ越したの、会えないかな』
元恋人だ。連絡先すら消していた女だ。
「……元カノ」
彼女は明らかに取り乱してみせた。
歯を震わせて、頭からつま先まで冷たくなったみたいに青白くなって、眼球は潤っている。
なんで。
「なんでなんで」
声まで震わせて、怒りの籠った大きな声を出す。「ひどい!嘘つき、裏切り者!」
ドラッグストアの前を通る人々がこちらを見る。
金髪の若い男に、通りすがりに「メンヘラ女」とちいさく笑われた。
たぶん彼女にも聞こえていた。彼女は黙る。
「よしてよ、連絡先だって消してた。誤解してるよ、君は────「うるさい!もういいよ!」
きみは、君は僕のいちばんなのに。
僕を遮って彼女は走ってゆく。
僕はそれを追いかけた。
西一番街を抜けて、ロマンス通りも抜けて。
ジグザグにするすると通り抜けていく。
走る途中に「お兄さんどうですか!」なんて声を掛けられる。バカか。この状況を見てくれ。
誰か彼女を止めてくれ。
姿が遠くなる。息が続かない。
少し早歩きに切り替えてから、また走った。
路地裏に曲がるのを見て、スピードをあげた。
こんな所でひとりにさせるわけにはいかない。
路地裏を曲がると彼女は座り込んでいた。
真っ暗な路地に、微かに息の音がする。
「…ごめん」
声を掛けても返事がなくて、シュッ、シュというなにかの音がする。僕はその音を知っていた。手首をカッターで切る音だ。
左手首からつらつら血が流れている。
それはもうほぼ固まっていて、ガタガタした影が腕を膨張させていた。僕はその腕を握った。彼女が、ふふふふ、と笑う。
「ストレスが溜まったら、カラオケで熱唱すると治るくらいの時は楽だったな。」
「なんだよ、それ。」
ペットシーツを膝の上に乗せて、ペットボトルの水で血を流す。固まった赤黒い血はなかなか流れなかった。
そのあと財布の中に入っていた絆創膏を彼女の腕に貼った。血はすぐに滲む。
僕らは、池袋のラブホ街で何をしているんだろうか。
「誤解だし、ブロックしたよ。見る?ぜんぶ見てもいいよ。」
事が落ち着いて煙草を吸う彼女に声を掛けた。
「いいよ。もう、いい。」
分かってるみたいに笑われた。本当にわかっているのだろうか。
傷だらけの手を引いて路地を抜ける。目に付いた適当なホテルに急いで入った。
 その日、僕らはセックスをしなかった。
何となく一緒に湯船に浸かって、一度ハグをした。傷口に水が沁みるみたいで、彼女は腕を上げながら浴槽に座っていた。
「しあわせだね」
と彼女は言った。僕はうなづいたんだ。
「ずっとここに居たい」って、
「でも猫に餌あげなきゃなぁ」って、
天井を見ながら言っていた。
 古ぼけたラブホテル。
ダニが酷くて身体中が痒い。起きたらもう一度シャワーを浴びようと思った。
止まらない有線では、羊文学の永遠のブルーが流れていて、僕はなんだか泣きそうになった。
彼女が虚な目で両手を拡げる。
僕はその腕の中に入った。睡眠薬が効いているらしい。腕に力が入っていない。
「デエビゴを10mg飲むと、泥のような眠気がくるの。」
「きっともうこの記憶も曖昧。だけど、あなたのこと、愛しているよ。」
僕がうん、と言うと彼女は目を閉じた。
それに続いて僕も目を閉じる。
ちいさな声で彼女が「アラーム」と言う。
僕はまたうん、と返した。
アラームはチェックアウトの三十分前にかけている。寝息が聞こえる。
——きみが悪い夢をみませんように。
おやすみなさい。
 翌朝、寝起きの悪い君を起こすと、君は僕にちいさく、死ね、と言って、また5分眠った。


(神様に言おうと思うの)


会えるなら会いたいに決まっている。
会いたいよ、会いたかった。
殺していいなら殺したかった。
死ななくていいなら死にたくなかった。
ただ、死ぬなよって、死なないでいてくれてありがとうって言われたかっただけなの
ただひとりあなただけに


 「─────注意の音がこわいの。例えば、踏切の音、電車が来るのを知らせる音、救急車の音もだよ、それらのすべて。」
 あたしが初めてそのことを滑らせたときは、心から好きになった男の前だった。
また常用された喫茶店で自分のことばかり話していた。その時の彼は不幸に浸水して天井をおよいでいた。そういうところが好きだった。そういうところに陶酔していた。
彼の目が私にピントを合わせる。
「きみは、死ねないよ」
きみは、死ねない。
「きみはずっと死ぬことが出来ないだろうね。
まだ子供だ、覚悟も何も出来ないクソガキだよ。
きみはぼくのこと好きだと言うけれど、
きみが選んでほかの男に抱かれてるのも知ってる。ぼくに気づかれてるのも知ってそうしてる。
限界だよ。」
何も言えない私に彼は続ける。
「さて、ぼくはもう覚悟を決めたんだ。来週はぼくの誕生日。その日にぼくは死ぬ。だから君とも別れるよ。さようなら。」
 頭の先からつま先まで冷たくなるのを感じた。だけど、もう私に言える言葉もないので、私はただ泣いて、荷物を背負う彼に間に合うようにちいさく、さよなら、と返した。


 七日後、彼は自殺を実行して死んだ。彼の姉からショートメールで訃報が届いた。どうやって死んだかは聞かなかった。
彼の誕生日に合わせて買った東京湾をぐるりと旋回する船のチケットをくちゃくちゃに丸めて捨てた。海が好きだった、彼の好きなものは全て好きだった。いまでも。
大好きなことを、あいしていることを知られたくなかった。怖かった、孤独を愛するものを愛すのは水を抱くようなものだった。それが分かっていた。
ほかの男に抱かれてるとき、あなたの事を考える。あぁ、心から大好きだと思う。それは伝わらなかった。一度も好きだと言ってはくれなかった。抱いてもくれなかった。
それでも死ぬんだと言った私を人目もはばからず抱き締めてくれたあなたを愛だとしたかった。

 もう何処にも、帰る場所が無いような気がする。
人と別れた日には、すごくそう思う。
池袋のこの小さなワンルームで、ひつじを数えた孤独のなか、それに気づいてしまわないように天井を藻掻く。私は泳げなかった。
誰も知らない、知られたくない、でも、探して見つけて欲しかった。必死に探し回って欲しかった。君に迎えに来てもらいたかった。


(きっと天国に行けるから)


「なるべくたくさん、生きものを飼いたい。」
朝、僕が目覚めると、彼女はもうずっと前から起きていたようで、僕の顔を見ながらそう言った。
生きもの。彼女がそれで落ち着くならばと、僕らはその日にまず熱帯魚屋に行くことにした。
虚ろな目で水槽を眺める彼女は、まさに人工的に造られた真っ赤な金魚を見て、「これがいい」と言った。
その金魚を色違いで三種類買った。赤、黒、ぶち色。
水槽はインターネットで買った。それらを家で直ぐに放すと、金魚は優雅に泳いで、彼女は嬉しそうに『川べりの家』を流して口ずさんでいた。
この家は川沿いでは無いけれど、きれいな空気が漂ってくる。
彼女から出ているものだ。
それからも毎日生きものは増えた。
動くものに関わらず、毎日水やりが必要な生花や植物、サボテンなどの観葉植物。
水槽にはメダカやドジョウも増えた。
猫のコタローがいるからと哺乳類を飼うことを少し戸惑った僕だったけれど、彼女の為ならとセキセイインコも一羽飼った。
意外にも彼女は毎日それらの飼育を怠らなかった。たぶん、彼女は、自分が死なないためにほかの命を自分の腕で持ったのだ。
それに気づいたのはやっと生きものの購入が落ち着いた二週間ほど後のことだった。
死にたくはない。
私が死んでしまったら、僕じゃこれらを抱えきれない。きっとそう思っていたのだろう。
自分の養分をほかの動物に与えるように彼女は世話をした。
毎日はやくに起きて、水を替えたり餌をあげたり話しかけたりしていた。
ほぼ自己犠牲で成り立ったようなものだった。
彼女はどんどん痩せていった。僕との会話すら上の空だった。
そんな彼女を、毎晩かならず抱きしめて眠った。
 この時期から、僕はとにかく彼女が心配でたまらなくて、バイトのシフトも減らしてなるべく彼女と居るようにした。痩せてゆく彼女に完全栄養食のジュースを無理矢理飲ませることもあった。
眠れなくなった彼女に、暫く行くのをやめていた精神科にも付き添って連れていった。
診療代も全て僕が出した。とにかく、とにかく死んで欲しくなかった。居なくなって欲しくなかった。僕の家をジャングルにしても、水族館にしても良いから、そばにいて欲しかった。
毎回病院に付きそう僕を見た主治医は、診察後に僕を呼び出して、
「ほんとうに治療を受けた方が良いのはあなたかもしれないよ。」
と言った。
彼女に言わなくてもいいから来てくれ、と。
「僕は、彼女が居るだけでいいんです。生きてさえしてくれれば、それはどんな薬よりも効くのです。」
そう返すと医者は呆れた様な、どうしようも無い顔をしたから、僕は足早に診察室を出た。
「何はなしてたの」
それが久しぶりに聞いた彼女の声だった。
「なにも。ちゃんと眠れてるか、だってさ。」
僕は嘘をついた。
ふうん、と小さく言ったあと、「別れろって言われてるのかと思った。」と不安そうに呟いた。
別れるわけないよ、そういう前に彼女はまた口を開いて、
「私にはもう、あなたしかいないの。」
と眼球をいっぱいに濡らした。
微かに痙攣する手を強く握り、タクシーに乗った。タクシーに乗っても手を離さずにいた。家に帰っても。
少し騒がしくなった家で、僕らはコールタールみたくどろどろに抱き合って眠った。
言葉はもう要らなかった。

 深夜二時、何だか寝苦しくなって身体を起こす。
なんだか酷く怖い夢を見ていた気がする。
横に彼女は居なくて、急に鼓動がうるさくなった僕は彼女が居た場所の布団を撫でる。まだあたたかい。
考えを巡らせていると彼女の声がした。
「おはよう。何だか寝苦しいね。はい、お水。」
良かった。
ありがとう、と返して一気に水を飲み干す。
またすぐに眠気が来て、腕をひろげて彼女を呼ぶ。
するりと軽い身体が横たわる。
もう眠ってしまいそうだ。意識が途切れる前、
「私のために生きてほしいな」
と言う声が聞こえた気がした。

 悪い夢を見て目が覚めた。部屋はまだ暗くて、眠りについたときから全然時間が経ってない気がする。
隣に彼女はいなくて、身体を起こすと目の前の扉のドアノブの前に座り込む彼女が見えて、僕は悪いことが過ぎってカーテンを開ける。
まだ明かりの差し込まない、時計は午前四時だった。
彼女は首を吊っていた。
僕は急いで紐から首を外して、彼女の肩を揺らした。
彼女は身体をかすかに揺らしたあと、大きく咳き込んだ。
生きていた。
ゆっくり顔を上げて目が合うその前に、彼女の頬を打った。
「おい、もうやめろよ、いい加減にしてくれよ。」
「お前は死ねないよ。この先一生死ねないよ。」
だから、だから生きてくれよ。
最後のその一言が言えなかった。言う前に、彼女は泣いていた。
 僕は彼女を抱き締めたあと、泣き止んだ身体を抱き上げてベットまで運んだ。
明かりの刺した机には僕の知らない青い薬が砕かれて置かれていた。きっとこの薬を僕は飲まされたんだと思う。まだ身体が重かった。
「昔の文豪みたいにきみの手を縛って眠った方がいいかな」とか、
「今日はなにか美味しいもの作ろうか」とか話しかけても彼女は黙ったままだった。
怒ったときや悲しいときに何も言わずに一点を見つめている。それは彼女の悪い癖だった。
僕が声をかけたあと、たまにインコやコタローが鳴いた。その声が響くくらいやけに白々しい沈黙だった。
ずっと抱き締めていた。返事をしなくてよかったから聞いて欲しかった。
彼女はそのうち腕のなかで寝息を立てて眠った。
彼女が起きる前に紐を片付けておこうと思う。


(物なんか盗っていないよ、人も殺していない)


 今日は元気の無い彼女に手料理を振舞った。
好物ばかり作って茶色に偏った食卓と、はじめての乾杯をした。
まぁ、僕はお酒にめっぽう弱い。はやくに潰れて壁にもたれる僕を、彼女は毛布で包んでくれた。
彼女のアルコールで赤くなった手首のケロイドを撫でると、彼女は笑う。
 「リストカットは白々しい目で見られるけれど、それはおじさんの前でスパイスに成るの。いいスパイスにね。」
横で悲しそうな声がひびく。
「4月1日、おじさんに妊娠したって嘘ついて、10万を貰った。それで私は旅をしたの、知らない東北の地だった。」
「海沿いには太った猫がいて、釣り堀のおじさんにはじろじろ見られた。定食屋のおばさんは愛想が悪くって、すれ違う中学生には通りすがりに貶された。だけど、いい街だった。とても。居心地が良かったの。」
「————でもね、もう帰ろうと思った。猫が待ってるし、薬が無くなった。騙したおじさんは私を殺そうと探してるかもしれない。だけど、帰らないと。あなたに会いに行かなきゃ、って。」
 いつの話だろう、一日家を開けたときだろうか。朦朧とする頭で考える。
ううん、僕だといいな。僕のところへ帰ってきてくれたんだ。
それだけで、それだけで、何をしててもいいんだよ。
「ありがとう」
「怒らないのね。」彼女は言った。
私がどれだけ男に抱かれていても怒らないのね。
私がどれだけのお金で抱かれてるか知らなくていいの。
私があなたのこと愛してるって言わなくてもいいの。どうして、何も言わないでいたの。
 分かっているんだ。
ただ帰ってきてくれるだけでよかったよ、少しだけでも心から笑ってくれていたのなら、
幸せだったんだ。
「すきだからだよ」
そう一言答えると、彼女は笑って、ばかだねぇといった。

 (自分だけ殺してしまったけれど)

 彼女がパニック発作を起こして便器に顔を突っ込んでるときも、壁を殴り続けても僕はもう何も言わなかった。言うことの聞かない子供みたいに泣き叫ぶ彼女をひたすら抱きしめて、少し落ち着いたら煙草を誘う。返事はできないだろうからと、「はい」だったら瞬きをして、と伝え、それだけには応えてくれた。


僕はね、本当にきみのことがすきだったんだ。
何を捨てても良かった、きみのためならなんでも出来たんだ。犯罪もぶん殴られるのも、君のためならなんでもするつもりだった。君のためなら死ねたんだよ。

 


(私はこんなに辛かったって、言うの)

あの日も、僕たちは言い合いをしていた。
どうしようもないことだった。僕に彼女の過去は拭えなかった。プラスチックの皿が飛んでくる。カラカラと情けない音を立てて。彼女が手首を切るのをしらないふりをして。
「死にたいなら、もう僕の知らないところで死んでくれよ。」
頭の隅にあった言葉だった。彼女の病気にうんざりしたときに僕の頭に浮かぶ、どうしようもなくて、無意味な言葉。絶対に言わないようにしようと思っていた言葉だった。
廊下からドンドンと言う激しい足音が聞こえる。
彼女が僕の頬を思い切り打った。
痛くてふいに涙が出た、言葉を出すのをやめて仕舞えば彼女を失う気がして、僕は諦めずに言葉を考える、なるべく彼女が傷つかない言葉、それを考えて口にしようとした。
「だから僕は、本当にすべて──」
「気づいてるよ、ぜんぶ。」
もう愛していないんでしょう。
まさか、この僕がだ、そんな筈があるわけない。ふざけるなよ、僕のこと、君がいちばん知っているのだろう。目の前ではいつものあのMVが流れている。これが日常だっただろう。なぁ、これが当たり前だったじゃないか。なぁ、聞いてくれよ、たまには僕の話を少しだけ聞いてくれる。


「すぐに戻ってくるわ。」
すぐに玄関の開く音がして、彼女が外に出ていく。出て行ってしまう。僕の脚は動かない。
愛している、愛しているよ。どうか帰ってきておくれ。涙が流れる。天井をみつめる。どのくらい時間が経ったかわからない、だけど僕はまたその後にすぐ眠気が来て、いつのまにか眠ってしまっていた。
目が覚めると時刻はもう深夜で、薬が抜けて妙に軽くなった身体を起こすと携帯が震えているのが見えた。しらない番号からの着信が一件あったことを報告する通知だった。検索してみても出てこない、個人なのか。明日掛け直してみよう。まず、シャワーを浴びて、この落ち着きのない胸を落ち着かせなきゃならない。そのあと、彼女の残した睡眠薬を飲んでまた眠ろう。夜がこんなにも長いなんて気が付きたくなかった。ぐるぐる回る言葉の渦を、彼女から打たれたこの頬の痛みを忘れたい、わすれたい、わすれたい、きみの心配を今夜だけしたくはない。怖いんだ、僕はずっと、哀しむのが怖かった。


(見てたんでしょう、って)


翌朝、目が覚めてすぐに携帯を手に取ると知らない番号からの着信、そのあとにショートメールが表示される。
「娘が亡くなりました。あなたにいちばん最初に連絡をしてくださいと書いてあったので連絡をしました、葬式の日時は────」


頭が真っ白だった。あぁ、なにかのドッキリなんだな。そうだろ、君は死んだふりが得意だった。今回もそれだろう。今回は手が込んでいるな、なんて思った。思わずにいられなかった。本当はもう前が歪んで見えない。見えないんだなにも、これが涙なのかわからない、目眩かもしれない、見えないよ。
戻ってくるって言っただろう。どうせ、僕のところに戻ってくるんだろう。どうせ、どうせ、きみは、ばかだから。あぁ、嘘、また笑ってくれよ。

   
  (だから楽にしてください)


彼女の母親を名乗る女からのメッセージは既読したが返信せずに、伝えられた日時と場所の当日になって、僕は黒のスーツを羽織った。ここ二日、たった二日だけで僕は酷くやつれた気がする。魚が死んだ。インコもあまり鳴かなくて、僕の空気を察したみたいにコタローが寄り添っていた。
正直信じてなんかいないのだ。これが僕を誘き寄せる嘘であってほしい、きっとそうだ。それから彼女に殺されてもいい、警察に捕まってもいいよ、いいから、生きているんだろう。
電車を乗り継いで海の近くの駅まで向かう。"彼女の母親"からメッセージが届く。「駅で待っています、喪服なのですぐわかるでしょう。」あぁ、彼女は白いワンピースでも着て、ドッキリでしたーって笑うんだろうな。笑えないよ。僕はそういうことばかり考えて背もたれに倒れる。電車はそれなりに混んでいたのに僕の隣に誰も乗ってはくれなかった。

改札を出ると喪服の女がすぐ目に入った。彼女の母親らしきその女は、シワシワのワイシャツに男物のスーツを羽織っていた。紺色のスーツは浮いている。長い爪に真っ黒のネイルを塗っていた。安物のマニキュアを上から塗ったのだろう。所々禿げていて、スパンコールがこちらに向かってきらきら光っている。おねがいだから、勝手にきらきら光らないでくれよ。


  (あたし、神様を信じてたの)


彼女は死んでいた。

信じられない僕はふらふらと棺桶に近づいた。
綺麗に化粧をして、それでいて全身が少し膨らんだ彼女がいた。

死んだんだ。

絶対に死なないって、思っていたんだ。
将来もなにもかも今後ずっと、あるって
あるって考えていた、僕だけが

  (あなたは悪くないよ)

彼女の骨は火葬のあとすぐに新品で、それでいて元からあったまだ名前の書かれていない墓だった、それに納骨された。母親は彼女の骨すら身近に置いておきたくなかったことを親族の会話から盗み聞きした。
僕に、「いるならあげるわ」と笑っていたらしい。僕はそれを聞いたそのままの足で別の親族と談笑する母親目掛けて腹を蹴りあげた。声も出さずにヨダレをたれしてうずくまる母親と親族からの罵声、僕はもう覚えていない。でも少し笑ってから、逃げだしたんだ。

  (さようなら。)

彼女の墓で線香をあげた。
駅から近い、海のそばの墓だった。
彼女の要望だったんだろう。
海に潜ってクジラを見るのはむつかしい、だから、鯨の骨、見に行かないと。
僕は死なないよ。多分。

十二月二十五日

”一緒に死にませんか 東京”

 


___僕はその日、イブなのに激務を任されていた。残業代など出ない、真っ暗な会社で。珈琲をひと口飲んでパソコンを閉じる。それからコートを羽織って、マフラーを巻いて会社をあとにする。外ももうすっかり暗かった。芳ばしい匂いと煌々としたネオンが残る街を抜け、帰宅するともう1時を過ぎていた。テレビを付ける。どのチャンネルも「メリークリスマス!」と言っていた。この時間まで忙しい、特番ばかりのようだ。真っ赤な帽子を被ったアナウンサーを遠目に見ながらビールをあけると、ふと、死にたいな、と思った。死にたい、死にたいな。

世間はこんなに賑やかなのに、馬鹿みたいな幸せに包まれているのに、僕は、いったいなんなんだ。いつから、クリスマスを待ちわびなくなってしまったのだろう。

携帯を手にして、ツイッターを開く。フォロワー73人の、僕の愚痴垢。ビールを飲みながら書き込む。

「クリスマスも残業だった。22歳、ブラック企業勤務、彼女なし。ほんと死にたいな。」

ツイートしたあとタイムラインをみた。チキン、ピザ、ケーキ、恋人からのプレゼント。それらで溢れていて、不幸で悲しいツイートはひとつもなかった。僕の憎しみに近い希死念慮が頭に渦を巻いてゆく。そのとき、通知マークが光った。

あすかさんがいいねしました。

___あすか?FF外だった。なんとなくアカウントを見に行った。

プロフィールは"あすか。17歳。疲れた"。最新ツイートが目に入る。

 


”一緒に死にませんか 東京”

 


一瞬、背筋が伸びる。一緒に死にませんか?自殺仲間を探しているのか?そのままいいね欄を見ると、僕のツイートのほかに、

「クリぼっち死にたいよぉ」「レポート出し忘れた死にたい」「もう1時なの無理〜死にたい」

とかで埋まっていた。"死にたい"と書かれたツイートを片っ端からいいねしている様だ。

死にたいのか。僕も死にたい、僕も死にたいよ。この幸福そうなツイートしかない中で、彼女も僕と同じだ、と思った。彼女も、死にたい人だ。このクリスマスに。

話したい、と思ってしまった。脈がドクドクと音をたてる。

「こんばんは。僕も、死にたいです」

小刻みに揺れる手で、ダイレクトメッセージを送った。直後、ビールを飲み干す。なぜか、緊張していた。すぐに返信がきた。

「死んでくれますか?私と一緒に」

彼女は、すぐ死ぬことを聞いてきた。僕は、死にたいからと言って、今すぐ死ぬ気ではなかった。第一、死ぬのが怖かったのだ。けれど、彼女と話してみたいと強く思ってしまった。

「死にたいです」

と送る。冷や汗をかいていた。もし本当に一緒に死ぬことになったら、どうするんだ、と、感情が揺蕩う。

「東京ですか」

「ええ、中野です。」

妙正寺川の交番の近く。午前2時です。柵に紐をかけて、首を吊ります。」

ここから徒歩5分も無い場所だった。死が、急に現実味を帯びる。

「今日ですか。もういるのですか?」

焦りながらそう送る。返信が無かった。2時まで、あと10分もなかった。

行こう、と思った。まだスーツを着ていたが、その上にコートを羽織る。

"死ぬやつは死ぬ時死ぬなんて言わない、黙って死ぬ"なんて誰かの言葉を、何故か思い出していた。彼女、本当は僕に助けて欲しいのかもしれない。いや、そう信じたかった。

自宅のマンションから一気に走った。酒が回る。頬が火照っているのがわかる。息が熱い。水が飲みたいと思った。あと7分。交番の前に着いた。交番の横に回ると、ちょうど死角になる位置に、人影が見えた。柵に縄をかけ柵に股がっている。彼女だった。走る。彼女に近付いた。一瞬目を見開いた彼女は、上がった眉毛をゆっくりと下げながら、

「死にたいひとですか?」

と聞いてきた。

彼女は長い髪の毛に、暗闇でもわかるほど細く、色白な肌をしていた。綺麗な顔をしていた。こんな子が死ぬなんて、とふいに思った。

僕が肩を震わせて呼吸を整えていると、それを気にせず彼女は続ける。

「ロープ、もう一本もってきたんですよ。ほら、どうぞ。」

あ、ちょっと、と戸惑う僕を横目に彼女は、首に縄を括る。

「ここなら交番の横ですから、綺麗なうちにみつかりますよ。あ、あと警察嫌いなんです。ちょっと嫌なもの見せたくて。」

じゃあ、お先に!なんて笑いながら柵から手を離そうとする彼女。咄嗟に、腕を掴んでしまった。

「ちょ、ちょっとまってよ。ほんとに死ぬの」

柵がミシリという音を立てている。彼女は上目遣いで僕を睨んだ。

「は?あんたも死ぬんじゃないんですか?」

最悪で最低なくらい、高圧的な声だった。

「だ、だって、こういうのって、止めてほしいんだよね?ふ 普通。僕、だから、止めようと思って、来たんだよ。」

僕の顔は完全に引き攣っていた。だって目の前で人が死にかけているんだ。しかも17歳の少女が。正直トラウマを植え付けられたくない、という本心もありながら。

「馬鹿言うなよ!ふざけるな!死にたいんだよ!死にたいんだよ!」

彼女は叫ぶ。僕の腕を振りほどこうとしながら。

「やっと死ねるのに!ここまでどれだけかかったか!あんたの身勝手な偽善で生きたくない!離して!生きたくないの!」

少しづつ静まり返って来た街に叫び声が響く。

「ち、ちょっと待ってよ!もうちょっとだけ、生きようよ!僕が絶対生きたいって思わせるから!頼むよ!」

僕も叫んだ。けれど彼女はその倍大きな声でふざけるな、無理、死にたい、を連呼している。

次の瞬間、案の定交番から警官が出てくる。

僕らの異様さに気づいた警官は、すぐに僕と彼女を歩道に引きずり下ろし、柵に結んだ縄を取った。

何をしているんだという怒声が僕たちの倍の声量で響いた。そして彼女を見ながら言う。

「まだきみは若いだろう、名前はなんだ、学校は。住所は…」

彼女は俯いていた。俯きながら、しっかりと僕を睨んでいた。

僕はどうしようも無い気持ちになった。ただ、警官の怒声だけが響くこの場所から立ち去りたい、と思った。彼女も黙っていた。

僕は咄嗟に彼女の腕を掴んで、走った。公園まで走ろうと思った。後ろから警官が叫んでいる。横を見ると彼女は僕について走っていた。真っ赤な頬をして。首にまだ縄が巻かれていて、その姿がとても滑稽だと思った。僕らはなんの会話も交わさずに、気づいたら公園の端まで走っていた。警官の姿はもう無かった。喉が渇いていることを思い出した。

 

あぁ、僕は水が飲みたいんだよな。

入院記録#2

来週退院、ということになった。

やっとだ、やっと。泣いて喜んだ。

その次の日、同室の人が結核だった。

真横だったから、これから2年間、定期的に検査を受けることになった。

その次の日、同じ階でコロナ患者が出た。

隔離病棟に移された。

PCR検査をされて、陰性だったけれど、濃厚接触者だからということで、10日、また入院することになった。

 

 

死にたくて、死にたくて死にたくて死にたくてたまらなかった。

声にならなかった。「あ゛ぁ゛ぅ」って声しか出なかった。

問いかけられても返事も出来なかった。

しんどいねって言われた

しんどいよ。

どうしてこうも邪魔されるのかと思った。

もう歯がなくてよかった。ギブスを着けたままでよかった。抗生剤を飲み続けなきゃいけなくてもよかったんだよ。安心して退院をしたかった。

安心して退院することは、できなさそうだった。

 

 

 

死ねばいいのに、と思った。

その同室の結核の人も、どこかのコロナ患者も。

死ねばいいのに

私は何も悪くないのに

涙が止まらなかった。

 

 

 

 

 

結核の検査、すごく怖い。

だってあの人、あんなに咳をしていたんだもの

感染していたらどうしよう

抱えて生きていくなんてしんどいな

もういっそ死んでしまいたいと思った

 

かかっても治るものだけど、怖かった

 

 

 

 

トイレにいる時、どこかから羊文学のマヨイガが流れた。

涙が溢れて止まらなかった

パンツ、履いてないのに。

 

 

 

 

ずっと誰かに助けて欲しい

助けて欲しいよ

窓も無い部屋にひとりで閉じ込められて

しんどくてたまらない

涙がずっと止まらない

熱が出ちゃったらまた大騒ぎになるのに

泣くのを辞めれない

たった10日でも

死んだ方がマシだって思う

 

 

 

 

 

それとも死にたいって懇願していたから死神でも来ちゃった?

 

 

 

 

ねえ、誰のせいなの

もう私にいじわるしないでよ

もう私を赦してよ

 

 

 

 

 

きっと、苦しいから、このブログは見返すことは無いと思う

 

 

 

あーあ、不幸だな

入院記録

点滴の針を何度も刺すこと、点滴が漏れること、そして腕がパンパンに腫れること、何度も採血をされること、手術のときの"ねむたくなる注射"、手術のあと麻酔が切れたとき、顎関固定を外したとき、200を超える抜糸をしたとき、化膿した場所を水で洗うとき、消毒、腰に管が入ったとき、尿道の管を抜くとき、目が覚めると骨盤に大きな金属器具が"生えていた"とき、姿勢を直されるときですら。全て痛かった。本当に痛くて痛くて、痛くて痛くて痛くて痛くて、痛い。堪らなくて こんなこと人間が経験することじゃないだろう、死んだ方がマシだと本当に何度も思った。

 

 

どうやったら帰れるか四六時中考えた。

どうやったら楽になるか四六時中考えた。

どうしたら痛みに脅えて、泣かなくていいようになるか考えた。

近づいてくる足音にずっと脅えて

毎日毎日何度も何度も泣いた

 

もう私は死にたくなかった。

けれど、「死にたい」以外の簡単に使えるこの感情の表し方を知らなかった。

 

ベットの上から転落死してしまいたい

簡単な自殺未遂をしたかった

死ななくて、痛くなくて、後遺症もなくて。

でも生きたいと思える方法。

そんなものあるのかな。

私の歪んだ顔、治るかな。

 

 

 

ツイッターで「死にたい」の文字を見たら、私と同じになればいいのに、なんてサイテーなことを思うようになった。

私と同じに、2ヶ月寝たきりで、1歩も歩けなくなって、食べ物もジュースだけ、歯がないから好きな物も固いものもたべられない。好きな人とも猫とも会えなくて、拷問みたいなことを毎日される。寝る時もとなりの人の叫び声で寝られない、帰りたいって泣いてもはいはいって済まされる、それが毎日、毎日毎日毎日。その環境になっちゃえばいいのに。って

けど、みんなそんな簡単に死なないんだ

みんなそんなに馬鹿じゃないんだね

 

本当に馬鹿だったな、と思う

死ぬならまだ日が落ちる前にね、という歌詞を気に入ってそこばかり口ずさんだ私は、午後8時に意識が朦朧としたまま、孤独だって、もっとだれかに心配されたいって、訳が分からなくなって飛び降りた。雨が土砂降りで、折れた骨に突き刺さって痛かった。怖かった。怖かった。寒かった。痛くて痛くて痛くて、朦朧とした。でも、どこか自分の中でニコニコして、カタルシスに浸って、よかったねって笑ってる自分がいて、それがいちばん怖かった。

 

だけどもう後悔する期間は過ぎてしまった。

泣いて泣いて泣いて苦しんでもがいてもなんにも戻ってこないしね、家族の信頼とか、猫と過ごせなかった2ヶ月間とか、会いたい人に会う予定も。金属のなにも入っていない身体も、歯も。当たり前にしていたことが、当たり前に出来なくなって辛くてたまんなかった。

 

今も涙が出ている。

 

私は大きな希死念慮とかはなくなったし、死にたくないと思うようになったけれど、それと同時にたくさんのものを失った。

これからの事がなにも想像できない。

死なないとは思うんだ、けれど。けれど。

きっともうすぐ退院するのに、退院している自分がまるで想像できない。

私はまだ1歩も歩けない。右足に体重をかけられない、だから全荷重の歩行はできない。まだギブスもしている。顎も頬も耳も麻痺して感覚がない。口だって全然開かない。咀嚼だって全然出来ない。顔が歪んでいる。元に戻るのか不安で不安で仕方ない。退院後の通院だってきっと死にたくなるほどつらいんだ。帰りたい帰りたいって嘆いていたのに、いざ帰れる見通しがつくと、このまま帰るのが怖くなる。

 

 

 

私は食べるのが大好きだから、美味しいものが食べたい。美味しいものをすきなだけ食べて、大好きな猫を満足するまで撫でて、世界一安心できて、しずかな場所で大好きな人とすやすやとねむりたい。本当にそれだけ。

 

今の私には全然余裕が無い

活字も読めないし、テレビも見れない、YouTubeすら集中できない。

毎朝毎晩心臓がどくどくして苦しい。

このまま死んじゃうんじゃないかって思う。

 

 

 

 

わからない、帰ったら幸せなのか。

帰っても痛いことは痛い

痛いことはつづく。

それでも私、やっぱり帰りたい。

やっぱり美味しいご飯は暫く食べれなくてもいい。

はやく、早く安心したいよ。

自殺未遂から

お久しぶりです。

8月3日にODをして4階から飛び降りました。

そうしたら、顎と骨盤と足、腕が折れました。

5回手術しました。今も入院しています。

命が危なかったそうです、何とか生きていました。

前歯がありません。奥歯も。

口が開きません。腰に沢山管が入っています。

もうこんなことは二度としたくないなあ、

私はこの先死ねないと思います。

もう生きちゃおう、と思います。

10月には退院できそうですが

一日が長くて、長くて長くて

仕方がないです、ストレスでどうにかなりそうなんです。

けれど耐えています、前を向いています。

もう死ねないなら生きるしかないのだから

どうせなら幸せになってやりたいな。

 

忘却

「いつの日かみんな私を忘れるんですよ、私と電話したことも、目を合わせて話したことも、手を繋いだことも、キスやセックスすらもぜーんぶ。そして彼等はあたらしい人とあたらしい恋をはじめるんです。全部はじめてみたいな顔しちゃって、時には“うまく出来なくてごめんね”って、ウブを演じるんですよ。その女は背が低くって、美容院で染めたきれいな茶髪に、毛先をクルクル巻いて、さぞかし可愛い子なんですね。そんな妄想まで出来ちゃうくらいに。そんな思考を張り巡らせていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。

何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが」

 

 

 

平成三十年九月二十六日、二年間寄り添った恋人が死んだ。享年十七年。自殺だった。ぼくは彼女が海に飲み込まれるところを見た、ただひとりの目撃者で、見届け人であった。

 


 ぼくはまだ二十才で、身も心も未熟なまま、彼女に出会った。街中の小さな喫煙所、ぼくとおんなじ銘柄をふかす彼女は、世の中で一番不幸みたいな面をしていた。表すなら、大切に育てていた花壇の花を、下校中の小学生に踏んづけられてしまうような、行き場の無い怒りや憎しみ、悲しさを抑え込んだ、難しくて、一生開かない錆びた鍵みたいな、そんな顔をしていた。

ぼくは、その日“手際が悪いから“バイトをクビになった。その帰り道に犬のフンを踏んだし、通り雨に襲われて参考書がズブ濡れになった。それに帰宅すると、三度目の浪人が決まった書類が卓上にひろげられていて、母親に包丁を向けられたから、勝手に産んだくせに、なんて中学生みたいな反抗をして家を飛び出した所だった。

そんな自殺してしまおうかなんて思うときに、私はもう死にましたみたいな顔の女が目の前にいた。妙に惹かれた。伸びた爪を切る、そのくらい当たり前に彼女の手を引いたし、なんとなく喫煙所の裏にある汚れた外壁の薄暗いホテルに入って、彼女を飲み込んだ。なんとなく。彼女は首を縦に揺らすだけの赤べこみたいだったけど、柔らかい目でぼくを見るから これを一度きりなんかにしたくなくて、彼女の電話番号を聞いたし、一緒に死のう、なんてつまらない冗談をふかして恋人になることを申し出た。

 


ぼくらは、お互いの話をしなかった。花がきれいとか、空がきれいとか、そういう他愛もない話を電話口でした。過去の話も、未来の話もせずに、おはようで始まって、おやすみで終わる話をした。ぼくのことを、名前にくんを付けて呼ぶ彼女は、ぼくに敬語をつかっていたし、そういう他人行儀なところが、ぼくは好きだった。

月に一度、会うか会わないかで、蜘蛛の糸のような関係だったけど、会えばこの世にふたりしかいないように愛し合ったし、今この瞬間のお互いを探りあった。薬を飲んでいるところを見れば、なんの薬が尋ねたし、ハンバーグプレートの人参を避けていれば嫌いなのか聞いた。彼女もぼくにそうした。

ぼくらが知らないのは、細かな個人情報くらいで、それ以外の知らなくていいことは知らなかったし、聞かなかった。それで良いと思っていた。

 


海のないところに産まれたらしい彼女は、海が好きだった。

会った日の最後はかならず海に出向いて、ざわつく波をぼんやりと眺めた。

その時の彼女は、いつも恍惚としていて、ぼくなんか眼中に無いようだったから、ここで無茶苦茶にしてやろうか、なんてことを何度も思ったけれど、決して行動にはしなかった。海を見たあと、彼女はぼくにキスをする。みじかい時間だけど。ぼくのことを思い出したみたいに、ハッとしてぼくに唇を当てる。ごまかすようなキスだけど、ぼくはそれがきらいじゃない。彼女がぼくの所へかえってくるのを待つ時間も、彼女の海を見る横顔も、好きだ。

いつもみたく、適当にぼくらは散歩をして、適当な路地でさよならをして、お互いの帰路に着く。そうして、また夜に電話でおやすみを言う。ぼくらはそうして生きていた。

 


言うならば安心だった。なんにも無くなって、母親にも社会にも嫌われた、この世に繋ぎ止めるものなんて何も無いようなぼくを、唯一引き止める、ぼくの光で、安心だった。彼女のなかには、ぼくのためだけの隙間がある気がした。今思うと、ぼくはそこに入りたくて必死だったのかもしれない。

 


  彼女と二度目の春を迎えた。澄んだ青空の元でぼくらはいつも通り待ち合わせをした。

会うのは3ヶ月ぶりだった。彼女はいつもと変わらなかったけど、どこかよそよそしかった。手を繋いで散歩をした。春風が吹き抜けた彼女の首元に紫の不規則な斑点があった。一瞬、鼻の奥がつんとした。彼女がぼくを振り返る。

「風、強いですね。すっかり春。」

ぼくはなにも応えずに、握った手に力を込めたら、痛い、と彼女は笑った。

 


裏切られたとか、悲しいとか、そんな感情はなかった。動揺の素振りを見せたつもりもない。

ただ、ぼくの知らない彼女が、ぼくの知らないだれかを赦したことが、怖かった。

けれど、ぼくらはお互いを知りすぎないことを暗黙の了解としていたから。ぼくは見ないふりをして、夜になり、彼女が海に惚れるのを待ち望んだ。

ぼくが望むとおり夜は来たし、ぼくらは海に足を運んだ。

ぼくに背を向けて水平線を見つめる彼女は、前よりずいぶんと痩せた気がした。

ぼくが横顔を見ようと近付くと、彼女の顔は暗くて見えなかった。砂浜を蹴っていじわるに正面から顔を覗いた。

 


彼女の目から、星屑がたくさんあふれていた。

彼女は泣いていた。

声を殺して、ぼくの顔より下を見て。

泣くんだ、彼女。

こぼれるそれをぼうっと見つめていた。そうしたら彼女はぼくの目を見据えて、はじめからぼくしか見ていないみたいな顔をした。

 


「私はずっと海に成りたくて、生きていました。あなたと出会う前からずっと。だれかに愛されるためでも、だれかを愛するためでもなく、ただ海に飲み込まれたくて、生きているんです。」

彼女は震えた声で、だけどはっきりとそう言った。左手の甲を右手の親指と人差し指でつねって、涙を我慢しようとしていた。こぼれる星が大きくなってまぶしかった。

8つ、間が空いた。ぼくは、震えていた。夜はまだまだ冷えるから。

「それは、死ぬということ? 海に飲み込まれて。けれどきみは海のない街に産まれたのに、海のないところで死ぬの」

「海のない街で産まれて、海で死ぬのは、格好わるいですか。」

そういうことじゃないけど、なんてことをぼやいていると、彼女は目を拭った。

「わたしが死んでも、生きていけますか」

視線が泳いだ。

「そりゃあ、生きていけるだろうけれど。死んで欲しくないな、自分が傷つきたくないから。きみのこと、忘れられないと思うし。」

ぼくは自分が思うより、彼女が思うより、彼女のことを愛していた。

「生きていて欲しいよ、なにがあったのかは知らないし聞くつもりもない。どんなに辛くても、死んだほうがマシだって思っても、生きててほしい、ぼくも生きるから。」

左の目がピクピクと痙攣した。こんなことは言い慣れていない。波風が強くなった。

「きみは泳げない、けどきみが溺れたらぼくが助けてあげるよ。ほら、ぼくは海のある街で生まれたしね……「一緒に死のう、って言ったじゃないですか。最初から期待なんかしてないですけど。なんか、そっちの方がよっぽど、格好悪いです。一緒に生きようなんて、ばかみたい。人間みたいで。」

ひと息もつかずに、ぼくの冗談を遮って彼女は言った。彼女の声に合わせて波は静かになった。

…一緒に死のうなんて口にしたことをこんなに後悔した日はないだろうな。ぼくだって死にたかったんだけど。きみに出会うまではずっと。いまだって死にたいかと聞かれたら死にたいのかもしれない。死ねるボタンがあれば押してるかもしれない。けれど、目の前に居るたったひとりのきみと、生きていたいと思ってしまっていた。なんにもなくていいから、変化なんかいらないから、こんな日がずっと続けばなんてことも願った。ぼくは何も言えなかった。ぼくから目を離さない彼女の白目は真っ赤で、二重が狭くなっていた。浮腫みやすいのかな、彼女。ぼくはこんな時にも、また新しくてしょうもない発見をしていた。

 

 

 

離れる、なんて話はしなかった。

少なくとも彼女にはぼくが必要だったんだ。

そりゃ、ぼくにも。

あれから電話の回数は減った。けれど1週間に一度はぼくから電話をかけた。大抵は夜に。彼女が海になっていないか、心配だった。幸い彼女はいつも電話に出てくれた。今日はなにをしたか、なにがあったか、ぼくはひとりでぺらぺら喋った。彼女はうなづくだけだったけど、ぼくはまだ彼女のものであることを、知らせたかった。彼女がぼくのものじゃなくても。

春が過ぎて、夏をも過ぎようとしていた。

ぼくたちは一度も会わなかった。

ぼくは母親に、大学に行かないなら父の後を継ぎなさいと詰められ(ぼくの父親は地方で農業をしている)、それだけは勘弁してくれ、と

大学受験の勉強を再開した。それにカフェとコンビニでアルバイトを始め、貯金もし始めた。母親に迷惑をかけたくなかった。それに、家に居ると彼女のことばかり考えてしまうから。

なんだかんだでぼくは忙しくなって、ひと月

彼女に電話をしなかった。

 

 

 

九月二十五日、テキストを開いていると電話が鳴った。彼女からだった。

一瞬で胸が高鳴り、三回咳払いをして、電話を取った。

「…もしもし」

「もしもし、こんばんは。私です。」

あぁ、彼女の声だ。こんなに低かったっけな。

「わかってるよ、どうしたの?ひさしぶりだね」

「……て…………ない……です」

外に居るのか、風が強いのか、声が全く聞こえない。かすかに波音が聞こえた気がした。

「ごめん、聞こえないよ。どうしたの。」

「…手のひらがきらきらしてて、それで、私、もうすぐ海になるかも、しれないです。」

彼女がそう言うと、電話は切れた。

彼女は、海に成ろうとしている。いや、死のうとしているのだ。今夜。

時刻は0時を回ろうとしていた。ぼくは参考書なんか放り投げて、母の怒鳴り声を背に、家を飛び出した。ふたりで行った海は僕の家から十五分、ぼくはその道を全速力で走り抜けた。途中で番犬に吠えられたけど、その声は一瞬で遠くなった。階段を降りる時サンダルが片方脱げた。路地をするする通り抜ける度、思い出が蘇って、視界がぼやけて、街灯が縦にゆがんだ。ぼくは泣いていた。なによりもはやく走りながら、さめざめと泣いていた。

 


海に着くと、彼女の背がみえたから、ぼくは呼吸をやめない肩をおさえて、何度も深呼吸をした。何度も息を吸って、吐いた。瞳はもう乾いていた。

彼女に駆け寄る。片方だけのサンダルが砂まみれになった。彼女の名前を呼んでも、彼女は背を向けたままだった。ぼくは彼女の肩を掴んで、むりやりぼくの方に向けた。

 


はじめて会った時を思い出した。彼女は、その時とおんなじ顔をしていた。死んでいたんだ。

ぼくがもう一度名前を呼ぶと、彼女は一度だけ、まばたきをした。ぼくは息を吸い込んだ。ヒュウ、という情けない音がした。彼女の目じりが微かに下がる。

 


「いつの日かみんな私を忘れるんですよ、私と電話したことも、目を合わせて話したことも、手を繋いだことも、キスやセックスすらもぜーんぶ。そして彼等はあたらしい人とあたらしい恋をはじめるんです。全部はじめてみたいな顔しちゃって、時には“うまく出来なくてごめんね”って、ウブを演じるんですよ。その女は背が低くって、美容院で染めたきれいな茶髪に、毛先をクルクル巻いて、さぞかし可愛い子なんですね。そんな妄想まで出来ちゃうくらいに。そんな思考を張り巡らせていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。」

彼女は、ぼくらが話そうとしなかった過去のことを話していた。

彼女は笑っていた。ぼくの目や、ときどき僕の鼻と口を見ながら、笑っていた。

あぁ、きみは何歳だっけ。ぼくは、彼女の歳を知らなかった。苗字も、住所も、知らなかった。

知らなくても良かった、けど、知っていて良かったこともあったんだ。

「何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。」

彼女はひと息で淡々と話す。まるで台本なんかを用意していたみたいに。

ぼくは何も言えずに、ただ泣いていた。わけも分からず、泣いていた。

ゆっくりと近づいてくる彼女の指先がぼくの涙を拐った。彼女の手は本当にきらきらしていた。すべての星が彼女の手に集まったみたいに。

「…ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが、

声でした。ひとの声、そして、あなたの声。」

彼女の両の手が透けていた。

「……そっか、ぼくの声、もうわからない?ちゃんと、聞こえているかな。ねえ、きみ。」

彼女は微笑んだ。はいでもいいえでもなく、ただやわらかく。

「ぼくはきみのことが好きだよ。この先だってあると思ってる。ぼくの声も、ぼくの顔や背丈も、忘れてもいいよ。だから、ぼくともう一度、新しく会って欲しい。」

彼女の全身がぴかぴか光った。波はいっそう強くなって、ぼくらに近づいてくる。消える、きえる。きえないで。どうか。

ぼくはありったけ彼女を抱きしめた。彼女は温もりがなくて、ざらざらしていて、砂のようだった。指の間からするする抜け落ちてゆく。彼女の顔を見た。ぼくの顔はきっとぐちゃぐちゃだっただろうな。でも、彼女は笑っていた。いつも海に見惚れるあの顔で、ぼくの顔をみつめていた。

瞬間、大きくなった波がぼくらに覆いかぶさって、ぼくは目を閉じた。鼻や耳に水が入り込む。何秒経ったのだろう。目を開けると彼女はいなかった。静まった波が、全身ずぶ濡れのぼくに知らない顔をして揺れている。水を抱いたみたいだ。ぼくの手には、まだ彼女の感触が残っていた。

 


数日後、彼女は行方不明で全国的に報道された。そのときにはじめて、彼女の苗字や、歳を知った。十七歳だった。まったく、大犯罪じゃないか。

 


彼女の家には遺書があったらしく、行方不明から自殺だという噂に切り替わって、世間はだんだんと彼女を忘れていった。

ぼくは彼女の家を知らないし、彼女の親に合わせる顔なんてどこにも無いから、線香なんて立てられないけど、毎晩海に向かってきみを想っている。

 


ぼくはあれから、なんとか大学に受かった。母親の顔もおだやかになって、足元を注意して歩くようになったし、なんなら折り畳み傘まで持ち歩くようになった。

ぼくはあまり人と会わないから、いつもきみとの思い出に浸ったりしている。

きみは広大な海で、ぼくのことを忘れていないかな。

あぁ、それと。つぎ出会う時は、ぼくを犯罪者にしないでくれよ。

 


彼女と出会ってから、もうすぐ三度目の春が来る。あの日と同じ場所でぼくは煙草をふかしている。

背で彼女の声が聞こえた気がした。

一瞬、ぼくの手のひらがきらきらと光った。

死後について

人が死んだあとに、どうなるか考えていると自殺することが億劫になる。それは幸か不幸か、死後どうなってしまうのかなんて生きている人間には到底わからない。「悪い事をしたら地獄に行ってしまうよ」「あの人は良い人だからきっと天国に行ったんだね」「自殺をしたら地獄に行くんだよ」なんてたくさんの言葉があるけれど、死後どこに行くかなんて誰にも分からない、死の世界を考えるのは生きている人間であり、地獄があるのも天国があるのも生きている人間だけだから

人は死んだら、完全に無くなるんだと思うな。姿もそうだけれど、こんな感情も、思考も全部なくなって、死んで呪ってやるなんてことも出来ず、何も無くなる

人間は死んだら忘れられていく、声から、顔から、段々とうやむやになっていく。けどそんなの死んだ人からすればどうでも良くて、どれだけ死を美談にしてもそれは一方通行で終わり   もうどこにもいないからね、笑えちゃうね。生きているなかで辛いことを誤魔化す、金、金、食、酒、娯楽。女、男、性。子供を産んで生きる理由を無理やり作り、そうして生きている。なんとか生きながらえようとね。だって死ぬのは怖い。死んでしまったら、どこへ向かうかわからない。誰も分からないから。そこに発生してから人間は、終わることに壮大な不安を抱えて生きている。

死んだ後は極楽浄土なんていうことを研究者が発表したら、それから毎日数え終わらないような人間が自殺する、という映画を見かけたことがあるけれど、それは人間の本質だと思った。

生きていることより死んだ方が何倍も楽で何倍も素敵だっていうことが分かれば、日本で毎日どれだけの人が死ぬだろうね。

流行りのウイルスより倍以上多いんじゃないかなぁ

 

人は生きている限り死を恐れる、時には死んだ人を美しく見立てたり、逆に怖がって霊にしたり近寄らなかったり。老衰で死ぬこと以外、死ぬことは不幸だと、可哀想にしないと自分が生きていけなくなっちゃうから

なんというか、どこかの研究者が 死んだ後は極楽浄土ですよ なんて発表してくれることを願いつつ生きるしかないんですよね、やっぱり。