遺書にはあなたの名前がある

彼女へ

僕はどうしてこうなってしまったのだろう。精神科の待合室でじっと考える。それはすべてあの女のせいで、あの女がいなければ、僕はもっとちゃんと居られたのかもしれない。あの女も、だ。

 

 

(まず、ごめんね。)


 すぅ,はぁはぁ。すぅ,はぁ
18:40。Twitterで出会った女とハチ公で待ち合わせをした。
すぅ,はぁはぁ。すぅ,はぁ
それらしき女がしゃがみこんで過呼吸を起こしている。Twitterで見た通りだ。明らかに精神疾患を抱えていますみたいなファッションで、ぐちゃぐちゃのウルフカットを震わせてしゃがみこんでいた。
僕は一瞬帰ろうか迷った。だけど今にも死にそうな初対面のこの女を放っておくわけにはいかない。
Twitterの子だよね。わかる?僕です。大丈夫?」
彼女は僕の顔をちらっとみて、薬、と言った。
「……かばんに薬が入ってる、赤いポーチ。」
失礼、と声を掛けて僕は彼女のカバンを漁る。これか、あった。
手渡すと錠剤を口に入れてつばで飲み込んだ。水を飲まずに薬を飲めるなんてすごいな、と不意に思った。
「ごめんなさい。もう大丈夫」全然大丈夫じゃない顔でそう言われて、「移動しようか。」僕は言った。
駅から少し歩いたところに古ぼけた純喫茶があった。前に彼女は煙草を吸うと聞いていたし、そこは静かだし、ぴったりだと思った。歩きながら彼女は下を向いて黙っていたから、僕は手を握った。そうしたら握り返してくれたんだ。
それが僕たちの不器用な出会いだった。

 喫茶店に着くと彼女はすこし落ち着いたようで、煙草に火をつけた。そして僕を見て、つり目を柔らかくしたあと、少し笑う。
「どうして帰らなかったの?こんなどうしようも無い女見てさ」
僕はうーんと少し大袈裟に腕を組んで返す。
「少なくとも気になっていたからね。君のこと。そういう病気があるのも知ってたし、君の文章にも写真にも惹かれてたから、会ってみたくて。」
「変なの、貴方には抱えきれないものよ」
軽蔑したように僕に言う。
あぁ、良い女だな。
「ねぇ、どこから来たの」
「僕?板橋だよ。猫と住んでる。きみは?」
「ねこ。いいな。私、家ないから」「家が無い?」「うん、そう。」
アイスラテのストローをくるくると回しながら彼女は答えた。
 それ以上僕は踏み込まなかったけれど、きっと僕が耳を塞ぎたくなるようなことを抱えてるんだろうなと同情した。そして、彼女のことを可愛いと思った。可愛くて仕方がない、か弱い女。僕が守ってあげたいと、その時思ってしまった。
「僕の家来る?」
不意に出た言葉だった。
彼女は驚いたあと、ニヤニヤと笑った。
「初対面だよ?きみ馬鹿だね。あたし、17歳だけど。エッチ出来ないよ」
最後のほうだけ小声になって僕に言った。ケタケタと笑う君を見て、それでもいいよと返した。彼女は心底驚いたような顔をしたあと、少し生ぬるい声で、
「じゃあ、いきたい。」
 と言った。


 それからの生活は早いものだった。
6畳のワンルーム。僕の猫もすっかり彼女に懐いて、彼女が飼い主みたいだった。
僕は大学を出てからフリーターで、昼間はアルバイトで家にいない。夜に帰ってくるとご飯を作って彼女が待っていることもあったし、真っ暗で誰もいない時もあった。僕が帰った2時間後に平然と「ただいま」と言って帰ってきた時も、何でもない日に高そうなケーキを買って帰ってきた時も、僕は何も言わなかった。帰ってきて居ない時は少し悲しくなるけど、次の日には絶対に帰ってくる。僕はそれをずっと信じて、彼女もその期待に応えてくれた。

 彼女は度々体調を崩した。彼女は、
「鬱と自律神経失調症なの、わかり易く言うとね。」
と言った。彼女が鬱で動けない時は、お風呂に入れて髪の毛を洗ってあげた。風呂さえ嫌がる時は身体を拭いてあげた。家事の全てを僕がして、人のごはんが食べたいという彼女に、たまにはと慣れない手で料理を作った。彼女の体調は2日で治る時もあれば、2週間続くこともあった。
ちいさなことで腹を立て僕に皿を投げた時もあった。僕に破片が当たって流血したのを見ると彼女はアパートの3階から飛び降りようとした事もあった。それを僕は必死で止めた。僕は、愛し愛されているんだと実感した。それはすごく歪んでいた。
でも、気づけば家の皿は全てプラスチックになっていた。


 僕のバイトが休みで、彼女が元気な時は渋谷や新宿に行くことも多かった。大体、映画館でレイトショーを見たあと、大衆居酒屋で酒を飲んで帰る。特におしゃれにも流行りにも興味のない彼女とのデートは楽だった。財布的にも。3回目の外でのデートの時、彼女はめずらしく泥酔して、帰りの駅のホームで僕にキスをした。それが初めてのキスだった。

 

 季節はどんどん巡って、季節は春になった。春は彼女の誕生日で、僕はバイト終わりに予約していた大きなケーキを買って帰ってきたけれど、当日の22時に彼女は居なくて少し悲しくなった僕は、テーブルにケーキを置いてベットで猫を撫でた。まだ暖房をつけているからうとうとしてきた。少し眠る。
23:50、ドアがガチャガチャと鳴った。
「ただいまー!」
 おかえり、とまだ寝起きな声を出すと、彼女は僕を揺すった。
「ねえねえあと10分!間に合った!おめでとうは?」
目が覚めてきた僕は彼女を抱き締めて、おめでとう、と言った。気づけば半年が過ぎていたんだ。「これ買ってきたの。遅くなっちゃった」
 白い箱を僕に渡してくる。開けるとペアのネックレスが入っていた。
「私の誕生日だけど、お揃いにしたくて。」
嬉しそうに彼女は言う。僕は大袈裟には喜べなかったけれど、本当に嬉しくって、ありがとう、と何度も言った。
「僕も、ケーキ買ってきたんだ。これだけになっちゃったけど、きっと美味しいよ」
暖房に晒されて少し溶けたケーキを頬張って、
「ぬるい、けどいちばん美味しい」
と彼女は笑ってくれた。
 その日、僕ははじめて彼女を抱いた。泣きそうなくらい幸せで、彼女も泣きそうなくらい幸せな顔をしていた。ずっとこうしていたいと思った。彼女は「首を絞めて」
と懇願したけれど、僕にはどうしても出来なかった。事が済んだあと、
「また今度ね」と言ってみせた。


(でもね、私、生きて欲しいよ)


 僕らがはじめて喧嘩をしたのは、梅雨の時期のことだった。
彼女は気圧にめっぽう弱くて、この時期はほぼ一日中布団の中にいた。お金の余裕もなくピリピリしていた彼女は僕によく当たった。僕が母親に与えられたものとほば同義の、ヒステリックだった。
あれがない、これはどこ、勝手にしないでよ、あんたなんか死んじゃえばいいのに。あなたがそうじゃなきゃ私は———。
そういうどうしようもないことばかりを言っていた。それでも僕は我慢して毎日働いた。彼女とこの部屋に居たかった。
仕事が終わって帰ると部屋は真っ暗で、彼女は手首を血だらけにしたまま睡眠薬で眠っていることも多かった。僕はその腕にバンドエイドを貼ってあげる。眠る、傷をつける、そこにバンドエイドを貼る。そのスピードが間に合わないほど、彼女の腕も、僕の体力も持たなくなっていた。
彼女が今日も生きていてくれて、それだけで嬉しかったのに、その余裕さえ無くなっていた。
 僕がイライラしているのも伝わっていたのだろう。二週間ぶりの休み、曇りの日だった。僕は布団にうずくまる彼女を横目にスマホゲームで時間を潰していた。彼女が起き上がる音がかすかに聞こえたが、気づいてないふりをした。
「ねえ」
名前を呼ばれて振り返る。
するとそこには、真っ白なワンピースを着ている彼女がいた。
「ねえねえ、海、いこ」
華奢で真っ白な素肌に生傷はよく映えていた。痛々しいほどに。僕は彼女のからだを見たあと、少し痩せたな、と思った。
「うん、行こうか」
少し溜めて返した僕の声に、彼女はホッとしたような顔をして、へたくそに笑ってみせた。
 適当なティーシャツとデニムを履いた僕の手を引いて、彼女と駅に向かった。少し蒸し暑い。東京から海までは遠い。また電車でパニックになるんじゃないかと思った。
僕は有線イヤホンの片方を彼女に渡して、最近部屋で彼女がよく聴いている音楽を流した。彼女はすこし驚いて、手を握って微笑んでくれた。最近の自分の態度を思い出して、僕は申し訳ないことをしていたな、と思った。
 平日だったからか電車はやけに空いていて、乗り換えてもずっと座っていることが出来た。大きな駅まで出た後、江ノ島へ向かうためまた電車を乗り換える。ソルファのアルバムをシャッフルで流してみると、彼女は
「きいたことある。好きな曲。」
と言った。
 江ノ島駅の手前まで来た時に、目の前に座った小さな子どもが、彼女の腕を指さして
「いたい、いたい」
と言った。おねぇちゃん、いたいいたい。
横にいる母親がすみませんすみません、と言ってそそくさと席を移動する。僕はなんだかムカついて、「ぶってきてあげようか」なんて言ってしまうと、彼女は「あの子はやさしいんだよ」と笑って、手を握る力を強くした。


 江ノ島に着くころには更に空はぼんやりとしていた。
彼女は目を離すと直ぐにどこかに飛んでってしまうから、手を繋いでいることが多くなった。
遅いよ、と急かされる。曇り空の江ノ島はどうしても綺麗とは言えなかった。
 綺麗な貝殻をひろって、家に帰ったら瓶に詰めようと約束した。シーグラスには目をくれず(最近の彼女は、コップを割る事故があってからガラスものが怖いみたいだった)貝殻を沢山集めた。そのあとは海に膝まで浸かって、僕が砂のない崖まで背負って連れて行ってあげて、ハンカチで足を拭ったあと、靴を履かせてあげた。ひざまずく僕を見て
「私お姫さまみたい」
 と彼女はケタケタと笑う。
「お姫さまだよ」と返すと、彼女はまた嬉しそうにケタケタと笑って、キスをしてきた。
 散々遊んで家に帰るともう時刻は深夜で、彼女はめずらしく睡眠薬を飲まずに深く眠った。
静かに眠る彼女を見て、僕も安心してとなりで眠った。


(すぐ死ぬって言っていたけれど)

 梅雨が明けると、彼女は腕を切ることをやめた。半袖の時期に切り替わってゆくのが理由かもしれないけれど、僕はそれが嬉しかった。
でもやっぱり、彼女は長袖ばかり着るようになっていたから、僕は七月の初めに綺麗な花柄のサマーニットをプレゼントしてみた。お揃いで胸元にワンポイントのクジラの刺繍があるサマーニットを僕も買った。
彼女はえらく気に入って、夏の間はそればかり着ていた。
 しかし、夏らしいことは何ひとつしていない気がする。夏祭りも海も人が多いからという理由で自然に避けていた。動物園に行こうかと誘った時は、「多汗症だから」
と断られた。それでもいちど、ふたりで美術館に行った。彼女は変な猫の絵にひどく見とれて、二十分もその絵画を見ていた。可愛いなぁと思った。
そういう所が本当に愛おしかった。僕には良さの分からない絵だったけれど、彼女が気に入ってるなら僕も好きだ。
 帰りにはその変な猫の絵のジッポをみつけて、記念に買ってあげた。
やっぱりこういう所の記念品は高いけれど、嬉しそうに笑う彼女を見ればそんなことどうでも良かった。ジッポの他にはポストカードを四枚ほど買って、ベット横の壁に貼った。この狭い部屋に、そういうものが段々と増えていって、僕はとても嬉しかったんだ。


 僕の貯金も段々と増えてきた。
特に必要は無かったし今の生活には満足していた。それは、特別な時のお金だった。
最悪で特別な時に使おうと思っていた。
たとえば、彼女が生きていくのが嫌になった時の逃避行代。たとえば、彼女が何処かに逃げてしまった時追いかけるお金、たとえば、彼女がもしも妊娠してしまったとき、堕ろすお金。すべてが彼女の為で、彼女のものになっていた。
 秋風が吹くころ、コタローも冬毛に切り替わってきて、僕らの服には毛がまとわりついた。それも気にせず、僕らは三人で眠る。
最近は彼女の無言の外出もヒステリックも鬱も少なくなった。よかった、落ち着いているみたいだ。
でも、彼女は時たま、快楽を求めてオーバードーズをした。
死にたくは無い、ただ気持ちよくなりたい。そう言っていた。違法薬物を使って会えなくなるよりはマシだと思った僕はそれを容認した。
たまに僕にも半ば無理矢理薬を飲ませてくる時もあった。一緒に気持ちよくなりたいそうだった。
デクセムを互いに飲みあった僕らはそれ以上の快楽を求めず、手を繋いで天井を見ていた。薬が切れるまでの間、ずっと。
それだけでぐるぐる視界は回って、彼女のことを愛している気持ちは強くなって、僕は仕切りに愛を伝えた。それは彼女も同じだったみたいで、彼女もそれに応えた。
「私も大好きだよ、世界でいちばん。一番だいすき。」
そう言い合ったあと、抱き合って眠る。
もう睡眠薬も、誰かと連絡を取ることも要らなかった。ふたりきりで良かった。
もう何も要らなかった。これが幸せだとつよく、つよく思っていた。そう勘違いしていた。


 (あなたにはおじいちゃんになるまで生きてて欲しい)


 その日は久しぶりに外でのデートだった。
デートと言っても、池袋を少し歩いて、日用品を買って、ラブホテルで泊まる(——僕が泊まったこと無いと言うと、一緒に行きたいと言われた)プランだった。
猫のペットシーツと、ボックスティッシュ。生理用品と、デクセムを買った。
今日もオーバードーズをするだろう。だけど良いんだ。朦朧とした彼女の瞳は、酷く幸せそうだった。
 僕が会計を済ませていると、彼女が居なくなった。こういう時は大体先に出ている。店内を横目で見た後、ドラッグストアを出る。
彼女は僕の携帯を見ながら体育座りをしていた。
嗚呼、なにか嫌なものを見ていないだろうか。
彼女は傷ついていないだろうか。
少し鼓動の早くなった胸で、彼女に近づく。
「ここのコンクリは汚いでしょう。」
彼女は黙っている。僕は彼女の肩を揺らして、なぁ、と言った。
「ねえ、これ。誰?」
彼女が携帯を僕に向ける。そこには『友達ではないユーザーです』の文字と、懐かしい名前があった。『ひさしぶり。こっちに引っ越したの、会えないかな』
元恋人だ。連絡先すら消していた女だ。
「……元カノ」
彼女は明らかに取り乱してみせた。
歯を震わせて、頭からつま先まで冷たくなったみたいに青白くなって、眼球は潤っている。
なんで。
「なんでなんで」
声まで震わせて、怒りの籠った大きな声を出す。「ひどい!嘘つき、裏切り者!」
ドラッグストアの前を通る人々がこちらを見る。
金髪の若い男に、通りすがりに「メンヘラ女」とちいさく笑われた。
たぶん彼女にも聞こえていた。彼女は黙る。
「よしてよ、連絡先だって消してた。誤解してるよ、君は────「うるさい!もういいよ!」
きみは、君は僕のいちばんなのに。
僕を遮って彼女は走ってゆく。
僕はそれを追いかけた。
西一番街を抜けて、ロマンス通りも抜けて。
ジグザグにするすると通り抜けていく。
走る途中に「お兄さんどうですか!」なんて声を掛けられる。バカか。この状況を見てくれ。
誰か彼女を止めてくれ。
姿が遠くなる。息が続かない。
少し早歩きに切り替えてから、また走った。
路地裏に曲がるのを見て、スピードをあげた。
こんな所でひとりにさせるわけにはいかない。
路地裏を曲がると彼女は座り込んでいた。
真っ暗な路地に、微かに息の音がする。
「…ごめん」
声を掛けても返事がなくて、シュッ、シュというなにかの音がする。僕はその音を知っていた。手首をカッターで切る音だ。
左手首からつらつら血が流れている。
それはもうほぼ固まっていて、ガタガタした影が腕を膨張させていた。僕はその腕を握った。彼女が、ふふふふ、と笑う。
「ストレスが溜まったら、カラオケで熱唱すると治るくらいの時は楽だったな。」
「なんだよ、それ。」
ペットシーツを膝の上に乗せて、ペットボトルの水で血を流す。固まった赤黒い血はなかなか流れなかった。
そのあと財布の中に入っていた絆創膏を彼女の腕に貼った。血はすぐに滲む。
僕らは、池袋のラブホ街で何をしているんだろうか。
「誤解だし、ブロックしたよ。見る?ぜんぶ見てもいいよ。」
事が落ち着いて煙草を吸う彼女に声を掛けた。
「いいよ。もう、いい。」
分かってるみたいに笑われた。本当にわかっているのだろうか。
傷だらけの手を引いて路地を抜ける。目に付いた適当なホテルに急いで入った。
 その日、僕らはセックスをしなかった。
何となく一緒に湯船に浸かって、一度ハグをした。傷口に水が沁みるみたいで、彼女は腕を上げながら浴槽に座っていた。
「しあわせだね」
と彼女は言った。僕はうなづいたんだ。
「ずっとここに居たい」って、
「でも猫に餌あげなきゃなぁ」って、
天井を見ながら言っていた。
 古ぼけたラブホテル。
ダニが酷くて身体中が痒い。起きたらもう一度シャワーを浴びようと思った。
止まらない有線では、羊文学の永遠のブルーが流れていて、僕はなんだか泣きそうになった。
彼女が虚な目で両手を拡げる。
僕はその腕の中に入った。睡眠薬が効いているらしい。腕に力が入っていない。
「デエビゴを10mg飲むと、泥のような眠気がくるの。」
「きっともうこの記憶も曖昧。だけど、あなたのこと、愛しているよ。」
僕がうん、と言うと彼女は目を閉じた。
それに続いて僕も目を閉じる。
ちいさな声で彼女が「アラーム」と言う。
僕はまたうん、と返した。
アラームはチェックアウトの三十分前にかけている。寝息が聞こえる。
——きみが悪い夢をみませんように。
おやすみなさい。
 翌朝、寝起きの悪い君を起こすと、君は僕にちいさく、死ね、と言って、また5分眠った。


(神様に言おうと思うの)


会えるなら会いたいに決まっている。
会いたいよ、会いたかった。
殺していいなら殺したかった。
死ななくていいなら死にたくなかった。
ただ、死ぬなよって、死なないでいてくれてありがとうって言われたかっただけなの
ただひとりあなただけに


 「─────注意の音がこわいの。例えば、踏切の音、電車が来るのを知らせる音、救急車の音もだよ、それらのすべて。」
 あたしが初めてそのことを滑らせたときは、心から好きになった男の前だった。
また常用された喫茶店で自分のことばかり話していた。その時の彼は不幸に浸水して天井をおよいでいた。そういうところが好きだった。そういうところに陶酔していた。
彼の目が私にピントを合わせる。
「きみは、死ねないよ」
きみは、死ねない。
「きみはずっと死ぬことが出来ないだろうね。
まだ子供だ、覚悟も何も出来ないクソガキだよ。
きみはぼくのこと好きだと言うけれど、
きみが選んでほかの男に抱かれてるのも知ってる。ぼくに気づかれてるのも知ってそうしてる。
限界だよ。」
何も言えない私に彼は続ける。
「さて、ぼくはもう覚悟を決めたんだ。来週はぼくの誕生日。その日にぼくは死ぬ。だから君とも別れるよ。さようなら。」
 頭の先からつま先まで冷たくなるのを感じた。だけど、もう私に言える言葉もないので、私はただ泣いて、荷物を背負う彼に間に合うようにちいさく、さよなら、と返した。


 七日後、彼は自殺を実行して死んだ。彼の姉からショートメールで訃報が届いた。どうやって死んだかは聞かなかった。
彼の誕生日に合わせて買った東京湾をぐるりと旋回する船のチケットをくちゃくちゃに丸めて捨てた。海が好きだった、彼の好きなものは全て好きだった。いまでも。
大好きなことを、あいしていることを知られたくなかった。怖かった、孤独を愛するものを愛すのは水を抱くようなものだった。それが分かっていた。
ほかの男に抱かれてるとき、あなたの事を考える。あぁ、心から大好きだと思う。それは伝わらなかった。一度も好きだと言ってはくれなかった。抱いてもくれなかった。
それでも死ぬんだと言った私を人目もはばからず抱き締めてくれたあなたを愛だとしたかった。

 もう何処にも、帰る場所が無いような気がする。
人と別れた日には、すごくそう思う。
池袋のこの小さなワンルームで、ひつじを数えた孤独のなか、それに気づいてしまわないように天井を藻掻く。私は泳げなかった。
誰も知らない、知られたくない、でも、探して見つけて欲しかった。必死に探し回って欲しかった。君に迎えに来てもらいたかった。


(きっと天国に行けるから)


「なるべくたくさん、生きものを飼いたい。」
朝、僕が目覚めると、彼女はもうずっと前から起きていたようで、僕の顔を見ながらそう言った。
生きもの。彼女がそれで落ち着くならばと、僕らはその日にまず熱帯魚屋に行くことにした。
虚ろな目で水槽を眺める彼女は、まさに人工的に造られた真っ赤な金魚を見て、「これがいい」と言った。
その金魚を色違いで三種類買った。赤、黒、ぶち色。
水槽はインターネットで買った。それらを家で直ぐに放すと、金魚は優雅に泳いで、彼女は嬉しそうに『川べりの家』を流して口ずさんでいた。
この家は川沿いでは無いけれど、きれいな空気が漂ってくる。
彼女から出ているものだ。
それからも毎日生きものは増えた。
動くものに関わらず、毎日水やりが必要な生花や植物、サボテンなどの観葉植物。
水槽にはメダカやドジョウも増えた。
猫のコタローがいるからと哺乳類を飼うことを少し戸惑った僕だったけれど、彼女の為ならとセキセイインコも一羽飼った。
意外にも彼女は毎日それらの飼育を怠らなかった。たぶん、彼女は、自分が死なないためにほかの命を自分の腕で持ったのだ。
それに気づいたのはやっと生きものの購入が落ち着いた二週間ほど後のことだった。
死にたくはない。
私が死んでしまったら、僕じゃこれらを抱えきれない。きっとそう思っていたのだろう。
自分の養分をほかの動物に与えるように彼女は世話をした。
毎日はやくに起きて、水を替えたり餌をあげたり話しかけたりしていた。
ほぼ自己犠牲で成り立ったようなものだった。
彼女はどんどん痩せていった。僕との会話すら上の空だった。
そんな彼女を、毎晩かならず抱きしめて眠った。
 この時期から、僕はとにかく彼女が心配でたまらなくて、バイトのシフトも減らしてなるべく彼女と居るようにした。痩せてゆく彼女に完全栄養食のジュースを無理矢理飲ませることもあった。
眠れなくなった彼女に、暫く行くのをやめていた精神科にも付き添って連れていった。
診療代も全て僕が出した。とにかく、とにかく死んで欲しくなかった。居なくなって欲しくなかった。僕の家をジャングルにしても、水族館にしても良いから、そばにいて欲しかった。
毎回病院に付きそう僕を見た主治医は、診察後に僕を呼び出して、
「ほんとうに治療を受けた方が良いのはあなたかもしれないよ。」
と言った。
彼女に言わなくてもいいから来てくれ、と。
「僕は、彼女が居るだけでいいんです。生きてさえしてくれれば、それはどんな薬よりも効くのです。」
そう返すと医者は呆れた様な、どうしようも無い顔をしたから、僕は足早に診察室を出た。
「何はなしてたの」
それが久しぶりに聞いた彼女の声だった。
「なにも。ちゃんと眠れてるか、だってさ。」
僕は嘘をついた。
ふうん、と小さく言ったあと、「別れろって言われてるのかと思った。」と不安そうに呟いた。
別れるわけないよ、そういう前に彼女はまた口を開いて、
「私にはもう、あなたしかいないの。」
と眼球をいっぱいに濡らした。
微かに痙攣する手を強く握り、タクシーに乗った。タクシーに乗っても手を離さずにいた。家に帰っても。
少し騒がしくなった家で、僕らはコールタールみたくどろどろに抱き合って眠った。
言葉はもう要らなかった。

 深夜二時、何だか寝苦しくなって身体を起こす。
なんだか酷く怖い夢を見ていた気がする。
横に彼女は居なくて、急に鼓動がうるさくなった僕は彼女が居た場所の布団を撫でる。まだあたたかい。
考えを巡らせていると彼女の声がした。
「おはよう。何だか寝苦しいね。はい、お水。」
良かった。
ありがとう、と返して一気に水を飲み干す。
またすぐに眠気が来て、腕をひろげて彼女を呼ぶ。
するりと軽い身体が横たわる。
もう眠ってしまいそうだ。意識が途切れる前、
「私のために生きてほしいな」
と言う声が聞こえた気がした。

 悪い夢を見て目が覚めた。部屋はまだ暗くて、眠りについたときから全然時間が経ってない気がする。
隣に彼女はいなくて、身体を起こすと目の前の扉のドアノブの前に座り込む彼女が見えて、僕は悪いことが過ぎってカーテンを開ける。
まだ明かりの差し込まない、時計は午前四時だった。
彼女は首を吊っていた。
僕は急いで紐から首を外して、彼女の肩を揺らした。
彼女は身体をかすかに揺らしたあと、大きく咳き込んだ。
生きていた。
ゆっくり顔を上げて目が合うその前に、彼女の頬を打った。
「おい、もうやめろよ、いい加減にしてくれよ。」
「お前は死ねないよ。この先一生死ねないよ。」
だから、だから生きてくれよ。
最後のその一言が言えなかった。言う前に、彼女は泣いていた。
 僕は彼女を抱き締めたあと、泣き止んだ身体を抱き上げてベットまで運んだ。
明かりの刺した机には僕の知らない青い薬が砕かれて置かれていた。きっとこの薬を僕は飲まされたんだと思う。まだ身体が重かった。
「昔の文豪みたいにきみの手を縛って眠った方がいいかな」とか、
「今日はなにか美味しいもの作ろうか」とか話しかけても彼女は黙ったままだった。
怒ったときや悲しいときに何も言わずに一点を見つめている。それは彼女の悪い癖だった。
僕が声をかけたあと、たまにインコやコタローが鳴いた。その声が響くくらいやけに白々しい沈黙だった。
ずっと抱き締めていた。返事をしなくてよかったから聞いて欲しかった。
彼女はそのうち腕のなかで寝息を立てて眠った。
彼女が起きる前に紐を片付けておこうと思う。


(物なんか盗っていないよ、人も殺していない)


 今日は元気の無い彼女に手料理を振舞った。
好物ばかり作って茶色に偏った食卓と、はじめての乾杯をした。
まぁ、僕はお酒にめっぽう弱い。はやくに潰れて壁にもたれる僕を、彼女は毛布で包んでくれた。
彼女のアルコールで赤くなった手首のケロイドを撫でると、彼女は笑う。
 「リストカットは白々しい目で見られるけれど、それはおじさんの前でスパイスに成るの。いいスパイスにね。」
横で悲しそうな声がひびく。
「4月1日、おじさんに妊娠したって嘘ついて、10万を貰った。それで私は旅をしたの、知らない東北の地だった。」
「海沿いには太った猫がいて、釣り堀のおじさんにはじろじろ見られた。定食屋のおばさんは愛想が悪くって、すれ違う中学生には通りすがりに貶された。だけど、いい街だった。とても。居心地が良かったの。」
「————でもね、もう帰ろうと思った。猫が待ってるし、薬が無くなった。騙したおじさんは私を殺そうと探してるかもしれない。だけど、帰らないと。あなたに会いに行かなきゃ、って。」
 いつの話だろう、一日家を開けたときだろうか。朦朧とする頭で考える。
ううん、僕だといいな。僕のところへ帰ってきてくれたんだ。
それだけで、それだけで、何をしててもいいんだよ。
「ありがとう」
「怒らないのね。」彼女は言った。
私がどれだけ男に抱かれていても怒らないのね。
私がどれだけのお金で抱かれてるか知らなくていいの。
私があなたのこと愛してるって言わなくてもいいの。どうして、何も言わないでいたの。
 分かっているんだ。
ただ帰ってきてくれるだけでよかったよ、少しだけでも心から笑ってくれていたのなら、
幸せだったんだ。
「すきだからだよ」
そう一言答えると、彼女は笑って、ばかだねぇといった。

 (自分だけ殺してしまったけれど)

 彼女がパニック発作を起こして便器に顔を突っ込んでるときも、壁を殴り続けても僕はもう何も言わなかった。言うことの聞かない子供みたいに泣き叫ぶ彼女をひたすら抱きしめて、少し落ち着いたら煙草を誘う。返事はできないだろうからと、「はい」だったら瞬きをして、と伝え、それだけには応えてくれた。


僕はね、本当にきみのことがすきだったんだ。
何を捨てても良かった、きみのためならなんでも出来たんだ。犯罪もぶん殴られるのも、君のためならなんでもするつもりだった。君のためなら死ねたんだよ。

 


(私はこんなに辛かったって、言うの)

あの日も、僕たちは言い合いをしていた。
どうしようもないことだった。僕に彼女の過去は拭えなかった。プラスチックの皿が飛んでくる。カラカラと情けない音を立てて。彼女が手首を切るのをしらないふりをして。
「死にたいなら、もう僕の知らないところで死んでくれよ。」
頭の隅にあった言葉だった。彼女の病気にうんざりしたときに僕の頭に浮かぶ、どうしようもなくて、無意味な言葉。絶対に言わないようにしようと思っていた言葉だった。
廊下からドンドンと言う激しい足音が聞こえる。
彼女が僕の頬を思い切り打った。
痛くてふいに涙が出た、言葉を出すのをやめて仕舞えば彼女を失う気がして、僕は諦めずに言葉を考える、なるべく彼女が傷つかない言葉、それを考えて口にしようとした。
「だから僕は、本当にすべて──」
「気づいてるよ、ぜんぶ。」
もう愛していないんでしょう。
まさか、この僕がだ、そんな筈があるわけない。ふざけるなよ、僕のこと、君がいちばん知っているのだろう。目の前ではいつものあのMVが流れている。これが日常だっただろう。なぁ、これが当たり前だったじゃないか。なぁ、聞いてくれよ、たまには僕の話を少しだけ聞いてくれる。


「すぐに戻ってくるわ。」
すぐに玄関の開く音がして、彼女が外に出ていく。出て行ってしまう。僕の脚は動かない。
愛している、愛しているよ。どうか帰ってきておくれ。涙が流れる。天井をみつめる。どのくらい時間が経ったかわからない、だけど僕はまたその後にすぐ眠気が来て、いつのまにか眠ってしまっていた。
目が覚めると時刻はもう深夜で、薬が抜けて妙に軽くなった身体を起こすと携帯が震えているのが見えた。しらない番号からの着信が一件あったことを報告する通知だった。検索してみても出てこない、個人なのか。明日掛け直してみよう。まず、シャワーを浴びて、この落ち着きのない胸を落ち着かせなきゃならない。そのあと、彼女の残した睡眠薬を飲んでまた眠ろう。夜がこんなにも長いなんて気が付きたくなかった。ぐるぐる回る言葉の渦を、彼女から打たれたこの頬の痛みを忘れたい、わすれたい、わすれたい、きみの心配を今夜だけしたくはない。怖いんだ、僕はずっと、哀しむのが怖かった。


(見てたんでしょう、って)


翌朝、目が覚めてすぐに携帯を手に取ると知らない番号からの着信、そのあとにショートメールが表示される。
「娘が亡くなりました。あなたにいちばん最初に連絡をしてくださいと書いてあったので連絡をしました、葬式の日時は────」


頭が真っ白だった。あぁ、なにかのドッキリなんだな。そうだろ、君は死んだふりが得意だった。今回もそれだろう。今回は手が込んでいるな、なんて思った。思わずにいられなかった。本当はもう前が歪んで見えない。見えないんだなにも、これが涙なのかわからない、目眩かもしれない、見えないよ。
戻ってくるって言っただろう。どうせ、僕のところに戻ってくるんだろう。どうせ、どうせ、きみは、ばかだから。あぁ、嘘、また笑ってくれよ。

   
  (だから楽にしてください)


彼女の母親を名乗る女からのメッセージは既読したが返信せずに、伝えられた日時と場所の当日になって、僕は黒のスーツを羽織った。ここ二日、たった二日だけで僕は酷くやつれた気がする。魚が死んだ。インコもあまり鳴かなくて、僕の空気を察したみたいにコタローが寄り添っていた。
正直信じてなんかいないのだ。これが僕を誘き寄せる嘘であってほしい、きっとそうだ。それから彼女に殺されてもいい、警察に捕まってもいいよ、いいから、生きているんだろう。
電車を乗り継いで海の近くの駅まで向かう。"彼女の母親"からメッセージが届く。「駅で待っています、喪服なのですぐわかるでしょう。」あぁ、彼女は白いワンピースでも着て、ドッキリでしたーって笑うんだろうな。笑えないよ。僕はそういうことばかり考えて背もたれに倒れる。電車はそれなりに混んでいたのに僕の隣に誰も乗ってはくれなかった。

改札を出ると喪服の女がすぐ目に入った。彼女の母親らしきその女は、シワシワのワイシャツに男物のスーツを羽織っていた。紺色のスーツは浮いている。長い爪に真っ黒のネイルを塗っていた。安物のマニキュアを上から塗ったのだろう。所々禿げていて、スパンコールがこちらに向かってきらきら光っている。おねがいだから、勝手にきらきら光らないでくれよ。


  (あたし、神様を信じてたの)


彼女は死んでいた。

信じられない僕はふらふらと棺桶に近づいた。
綺麗に化粧をして、それでいて全身が少し膨らんだ彼女がいた。

死んだんだ。

絶対に死なないって、思っていたんだ。
将来もなにもかも今後ずっと、あるって
あるって考えていた、僕だけが

  (あなたは悪くないよ)

彼女の骨は火葬のあとすぐに新品で、それでいて元からあったまだ名前の書かれていない墓だった、それに納骨された。母親は彼女の骨すら身近に置いておきたくなかったことを親族の会話から盗み聞きした。
僕に、「いるならあげるわ」と笑っていたらしい。僕はそれを聞いたそのままの足で別の親族と談笑する母親目掛けて腹を蹴りあげた。声も出さずにヨダレをたれしてうずくまる母親と親族からの罵声、僕はもう覚えていない。でも少し笑ってから、逃げだしたんだ。

  (さようなら。)

彼女の墓で線香をあげた。
駅から近い、海のそばの墓だった。
彼女の要望だったんだろう。
海に潜ってクジラを見るのはむつかしい、だから、鯨の骨、見に行かないと。
僕は死なないよ。多分。