忘却

「いつの日かみんな私を忘れるんですよ、私と電話したことも、目を合わせて話したことも、手を繋いだことも、キスやセックスすらもぜーんぶ。そして彼等はあたらしい人とあたらしい恋をはじめるんです。全部はじめてみたいな顔しちゃって、時には“うまく出来なくてごめんね”って、ウブを演じるんですよ。その女は背が低くって、美容院で染めたきれいな茶髪に、毛先をクルクル巻いて、さぞかし可愛い子なんですね。そんな妄想まで出来ちゃうくらいに。そんな思考を張り巡らせていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。

何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが」

 

 

 

平成三十年九月二十六日、二年間寄り添った恋人が死んだ。享年十七年。自殺だった。ぼくは彼女が海に飲み込まれるところを見た、ただひとりの目撃者で、見届け人であった。

 


 ぼくはまだ二十才で、身も心も未熟なまま、彼女に出会った。街中の小さな喫煙所、ぼくとおんなじ銘柄をふかす彼女は、世の中で一番不幸みたいな面をしていた。表すなら、大切に育てていた花壇の花を、下校中の小学生に踏んづけられてしまうような、行き場の無い怒りや憎しみ、悲しさを抑え込んだ、難しくて、一生開かない錆びた鍵みたいな、そんな顔をしていた。

ぼくは、その日“手際が悪いから“バイトをクビになった。その帰り道に犬のフンを踏んだし、通り雨に襲われて参考書がズブ濡れになった。それに帰宅すると、三度目の浪人が決まった書類が卓上にひろげられていて、母親に包丁を向けられたから、勝手に産んだくせに、なんて中学生みたいな反抗をして家を飛び出した所だった。

そんな自殺してしまおうかなんて思うときに、私はもう死にましたみたいな顔の女が目の前にいた。妙に惹かれた。伸びた爪を切る、そのくらい当たり前に彼女の手を引いたし、なんとなく喫煙所の裏にある汚れた外壁の薄暗いホテルに入って、彼女を飲み込んだ。なんとなく。彼女は首を縦に揺らすだけの赤べこみたいだったけど、柔らかい目でぼくを見るから これを一度きりなんかにしたくなくて、彼女の電話番号を聞いたし、一緒に死のう、なんてつまらない冗談をふかして恋人になることを申し出た。

 


ぼくらは、お互いの話をしなかった。花がきれいとか、空がきれいとか、そういう他愛もない話を電話口でした。過去の話も、未来の話もせずに、おはようで始まって、おやすみで終わる話をした。ぼくのことを、名前にくんを付けて呼ぶ彼女は、ぼくに敬語をつかっていたし、そういう他人行儀なところが、ぼくは好きだった。

月に一度、会うか会わないかで、蜘蛛の糸のような関係だったけど、会えばこの世にふたりしかいないように愛し合ったし、今この瞬間のお互いを探りあった。薬を飲んでいるところを見れば、なんの薬が尋ねたし、ハンバーグプレートの人参を避けていれば嫌いなのか聞いた。彼女もぼくにそうした。

ぼくらが知らないのは、細かな個人情報くらいで、それ以外の知らなくていいことは知らなかったし、聞かなかった。それで良いと思っていた。

 


海のないところに産まれたらしい彼女は、海が好きだった。

会った日の最後はかならず海に出向いて、ざわつく波をぼんやりと眺めた。

その時の彼女は、いつも恍惚としていて、ぼくなんか眼中に無いようだったから、ここで無茶苦茶にしてやろうか、なんてことを何度も思ったけれど、決して行動にはしなかった。海を見たあと、彼女はぼくにキスをする。みじかい時間だけど。ぼくのことを思い出したみたいに、ハッとしてぼくに唇を当てる。ごまかすようなキスだけど、ぼくはそれがきらいじゃない。彼女がぼくの所へかえってくるのを待つ時間も、彼女の海を見る横顔も、好きだ。

いつもみたく、適当にぼくらは散歩をして、適当な路地でさよならをして、お互いの帰路に着く。そうして、また夜に電話でおやすみを言う。ぼくらはそうして生きていた。

 


言うならば安心だった。なんにも無くなって、母親にも社会にも嫌われた、この世に繋ぎ止めるものなんて何も無いようなぼくを、唯一引き止める、ぼくの光で、安心だった。彼女のなかには、ぼくのためだけの隙間がある気がした。今思うと、ぼくはそこに入りたくて必死だったのかもしれない。

 


  彼女と二度目の春を迎えた。澄んだ青空の元でぼくらはいつも通り待ち合わせをした。

会うのは3ヶ月ぶりだった。彼女はいつもと変わらなかったけど、どこかよそよそしかった。手を繋いで散歩をした。春風が吹き抜けた彼女の首元に紫の不規則な斑点があった。一瞬、鼻の奥がつんとした。彼女がぼくを振り返る。

「風、強いですね。すっかり春。」

ぼくはなにも応えずに、握った手に力を込めたら、痛い、と彼女は笑った。

 


裏切られたとか、悲しいとか、そんな感情はなかった。動揺の素振りを見せたつもりもない。

ただ、ぼくの知らない彼女が、ぼくの知らないだれかを赦したことが、怖かった。

けれど、ぼくらはお互いを知りすぎないことを暗黙の了解としていたから。ぼくは見ないふりをして、夜になり、彼女が海に惚れるのを待ち望んだ。

ぼくが望むとおり夜は来たし、ぼくらは海に足を運んだ。

ぼくに背を向けて水平線を見つめる彼女は、前よりずいぶんと痩せた気がした。

ぼくが横顔を見ようと近付くと、彼女の顔は暗くて見えなかった。砂浜を蹴っていじわるに正面から顔を覗いた。

 


彼女の目から、星屑がたくさんあふれていた。

彼女は泣いていた。

声を殺して、ぼくの顔より下を見て。

泣くんだ、彼女。

こぼれるそれをぼうっと見つめていた。そうしたら彼女はぼくの目を見据えて、はじめからぼくしか見ていないみたいな顔をした。

 


「私はずっと海に成りたくて、生きていました。あなたと出会う前からずっと。だれかに愛されるためでも、だれかを愛するためでもなく、ただ海に飲み込まれたくて、生きているんです。」

彼女は震えた声で、だけどはっきりとそう言った。左手の甲を右手の親指と人差し指でつねって、涙を我慢しようとしていた。こぼれる星が大きくなってまぶしかった。

8つ、間が空いた。ぼくは、震えていた。夜はまだまだ冷えるから。

「それは、死ぬということ? 海に飲み込まれて。けれどきみは海のない街に産まれたのに、海のないところで死ぬの」

「海のない街で産まれて、海で死ぬのは、格好わるいですか。」

そういうことじゃないけど、なんてことをぼやいていると、彼女は目を拭った。

「わたしが死んでも、生きていけますか」

視線が泳いだ。

「そりゃあ、生きていけるだろうけれど。死んで欲しくないな、自分が傷つきたくないから。きみのこと、忘れられないと思うし。」

ぼくは自分が思うより、彼女が思うより、彼女のことを愛していた。

「生きていて欲しいよ、なにがあったのかは知らないし聞くつもりもない。どんなに辛くても、死んだほうがマシだって思っても、生きててほしい、ぼくも生きるから。」

左の目がピクピクと痙攣した。こんなことは言い慣れていない。波風が強くなった。

「きみは泳げない、けどきみが溺れたらぼくが助けてあげるよ。ほら、ぼくは海のある街で生まれたしね……「一緒に死のう、って言ったじゃないですか。最初から期待なんかしてないですけど。なんか、そっちの方がよっぽど、格好悪いです。一緒に生きようなんて、ばかみたい。人間みたいで。」

ひと息もつかずに、ぼくの冗談を遮って彼女は言った。彼女の声に合わせて波は静かになった。

…一緒に死のうなんて口にしたことをこんなに後悔した日はないだろうな。ぼくだって死にたかったんだけど。きみに出会うまではずっと。いまだって死にたいかと聞かれたら死にたいのかもしれない。死ねるボタンがあれば押してるかもしれない。けれど、目の前に居るたったひとりのきみと、生きていたいと思ってしまっていた。なんにもなくていいから、変化なんかいらないから、こんな日がずっと続けばなんてことも願った。ぼくは何も言えなかった。ぼくから目を離さない彼女の白目は真っ赤で、二重が狭くなっていた。浮腫みやすいのかな、彼女。ぼくはこんな時にも、また新しくてしょうもない発見をしていた。

 

 

 

離れる、なんて話はしなかった。

少なくとも彼女にはぼくが必要だったんだ。

そりゃ、ぼくにも。

あれから電話の回数は減った。けれど1週間に一度はぼくから電話をかけた。大抵は夜に。彼女が海になっていないか、心配だった。幸い彼女はいつも電話に出てくれた。今日はなにをしたか、なにがあったか、ぼくはひとりでぺらぺら喋った。彼女はうなづくだけだったけど、ぼくはまだ彼女のものであることを、知らせたかった。彼女がぼくのものじゃなくても。

春が過ぎて、夏をも過ぎようとしていた。

ぼくたちは一度も会わなかった。

ぼくは母親に、大学に行かないなら父の後を継ぎなさいと詰められ(ぼくの父親は地方で農業をしている)、それだけは勘弁してくれ、と

大学受験の勉強を再開した。それにカフェとコンビニでアルバイトを始め、貯金もし始めた。母親に迷惑をかけたくなかった。それに、家に居ると彼女のことばかり考えてしまうから。

なんだかんだでぼくは忙しくなって、ひと月

彼女に電話をしなかった。

 

 

 

九月二十五日、テキストを開いていると電話が鳴った。彼女からだった。

一瞬で胸が高鳴り、三回咳払いをして、電話を取った。

「…もしもし」

「もしもし、こんばんは。私です。」

あぁ、彼女の声だ。こんなに低かったっけな。

「わかってるよ、どうしたの?ひさしぶりだね」

「……て…………ない……です」

外に居るのか、風が強いのか、声が全く聞こえない。かすかに波音が聞こえた気がした。

「ごめん、聞こえないよ。どうしたの。」

「…手のひらがきらきらしてて、それで、私、もうすぐ海になるかも、しれないです。」

彼女がそう言うと、電話は切れた。

彼女は、海に成ろうとしている。いや、死のうとしているのだ。今夜。

時刻は0時を回ろうとしていた。ぼくは参考書なんか放り投げて、母の怒鳴り声を背に、家を飛び出した。ふたりで行った海は僕の家から十五分、ぼくはその道を全速力で走り抜けた。途中で番犬に吠えられたけど、その声は一瞬で遠くなった。階段を降りる時サンダルが片方脱げた。路地をするする通り抜ける度、思い出が蘇って、視界がぼやけて、街灯が縦にゆがんだ。ぼくは泣いていた。なによりもはやく走りながら、さめざめと泣いていた。

 


海に着くと、彼女の背がみえたから、ぼくは呼吸をやめない肩をおさえて、何度も深呼吸をした。何度も息を吸って、吐いた。瞳はもう乾いていた。

彼女に駆け寄る。片方だけのサンダルが砂まみれになった。彼女の名前を呼んでも、彼女は背を向けたままだった。ぼくは彼女の肩を掴んで、むりやりぼくの方に向けた。

 


はじめて会った時を思い出した。彼女は、その時とおんなじ顔をしていた。死んでいたんだ。

ぼくがもう一度名前を呼ぶと、彼女は一度だけ、まばたきをした。ぼくは息を吸い込んだ。ヒュウ、という情けない音がした。彼女の目じりが微かに下がる。

 


「いつの日かみんな私を忘れるんですよ、私と電話したことも、目を合わせて話したことも、手を繋いだことも、キスやセックスすらもぜーんぶ。そして彼等はあたらしい人とあたらしい恋をはじめるんです。全部はじめてみたいな顔しちゃって、時には“うまく出来なくてごめんね”って、ウブを演じるんですよ。その女は背が低くって、美容院で染めたきれいな茶髪に、毛先をクルクル巻いて、さぞかし可愛い子なんですね。そんな妄想まで出来ちゃうくらいに。そんな思考を張り巡らせていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。」

彼女は、ぼくらが話そうとしなかった過去のことを話していた。

彼女は笑っていた。ぼくの目や、ときどき僕の鼻と口を見ながら、笑っていた。

あぁ、きみは何歳だっけ。ぼくは、彼女の歳を知らなかった。苗字も、住所も、知らなかった。

知らなくても良かった、けど、知っていて良かったこともあったんだ。

「何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。」

彼女はひと息で淡々と話す。まるで台本なんかを用意していたみたいに。

ぼくは何も言えずに、ただ泣いていた。わけも分からず、泣いていた。

ゆっくりと近づいてくる彼女の指先がぼくの涙を拐った。彼女の手は本当にきらきらしていた。すべての星が彼女の手に集まったみたいに。

「…ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが、

声でした。ひとの声、そして、あなたの声。」

彼女の両の手が透けていた。

「……そっか、ぼくの声、もうわからない?ちゃんと、聞こえているかな。ねえ、きみ。」

彼女は微笑んだ。はいでもいいえでもなく、ただやわらかく。

「ぼくはきみのことが好きだよ。この先だってあると思ってる。ぼくの声も、ぼくの顔や背丈も、忘れてもいいよ。だから、ぼくともう一度、新しく会って欲しい。」

彼女の全身がぴかぴか光った。波はいっそう強くなって、ぼくらに近づいてくる。消える、きえる。きえないで。どうか。

ぼくはありったけ彼女を抱きしめた。彼女は温もりがなくて、ざらざらしていて、砂のようだった。指の間からするする抜け落ちてゆく。彼女の顔を見た。ぼくの顔はきっとぐちゃぐちゃだっただろうな。でも、彼女は笑っていた。いつも海に見惚れるあの顔で、ぼくの顔をみつめていた。

瞬間、大きくなった波がぼくらに覆いかぶさって、ぼくは目を閉じた。鼻や耳に水が入り込む。何秒経ったのだろう。目を開けると彼女はいなかった。静まった波が、全身ずぶ濡れのぼくに知らない顔をして揺れている。水を抱いたみたいだ。ぼくの手には、まだ彼女の感触が残っていた。

 


数日後、彼女は行方不明で全国的に報道された。そのときにはじめて、彼女の苗字や、歳を知った。十七歳だった。まったく、大犯罪じゃないか。

 


彼女の家には遺書があったらしく、行方不明から自殺だという噂に切り替わって、世間はだんだんと彼女を忘れていった。

ぼくは彼女の家を知らないし、彼女の親に合わせる顔なんてどこにも無いから、線香なんて立てられないけど、毎晩海に向かってきみを想っている。

 


ぼくはあれから、なんとか大学に受かった。母親の顔もおだやかになって、足元を注意して歩くようになったし、なんなら折り畳み傘まで持ち歩くようになった。

ぼくはあまり人と会わないから、いつもきみとの思い出に浸ったりしている。

きみは広大な海で、ぼくのことを忘れていないかな。

あぁ、それと。つぎ出会う時は、ぼくを犯罪者にしないでくれよ。

 


彼女と出会ってから、もうすぐ三度目の春が来る。あの日と同じ場所でぼくは煙草をふかしている。

背で彼女の声が聞こえた気がした。

一瞬、ぼくの手のひらがきらきらと光った。